昭和の航空自衛隊の思い出(470)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(5)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
 私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
 先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
 昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
 自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
 今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
 矢田次夫元統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。
2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
  かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。
 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。
山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・海上自衛官と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。
 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出・香りにつながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。
❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
⓱ 復員母と再会する

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⓲ 復員輸送に着任する

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⓳ 惨劇目のあたりにして

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⓴ 舞鶴から妻を迎える

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㉑ 心現れる勉強

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㉒ 慈悲の心と大寒の行

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㉓ 艦を離れ故郷に帰る

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* 次回は、出雲造船総務課長、自ら困難に立ち向かう、強い母に感謝、31年間の自衛隊勤務、深い水の流れのように、愛国の涙に支えられ、制服姿で終わり告げる、母のめいふくを祈って(完)
4 今日における読後感想
❶   全編を通して強く感じるものは、矢田次夫元統幕議長の人生の歩みの中に、母親への思いや感謝の心情がほとばしるほど出てくることである。

    誰しも自分の人生において、母の愛情は強しで、終生忘れ難いものである。顧みて「親孝行したいときには親はなし」である。残念ながら人生とはこんなものかもしれない。

    私も東京で学んだ1等空尉のCS学生時代に、母が最初にして最後となったが上京して1カ月官舎に滞在してくれたことがある。短期間であったが年老いた母の当時の心情を思いやると思い出は尽きないものがある。私の家族と一緒に住み、末っ子の私ができた最後の直接的な母への孝行であった。

❷ 矢田次夫元統幕議長は、敗戦直後の混乱の中で、昭和20年11月海防艦第36号の先任将校兼航海長を命ぜられ、復員業務に従事することになる。

    敗戦により階級と上下関係がなくなり、規律の乱れた艦船において、先任将校・副長として、22歳にして乱れた規律を立て直す為に心血を注いだ苦闘の物語は、部隊等を率いた経験のある者にはよく分かる。

    指揮統率は、法令に基づく指揮権限とともに部下をして心服させる統御なくして成り立たない。法令等や職務に基づき権限を行使して任務を遂行することはできる。

   しかし、先頭に立って率先垂範し、部下をして心服させるものは、卓越した識見技能と部下を使いこなせる手腕と全責任を負う度量ではなかろうか。

    矢田先任将校は、率先垂範と航海長として他の乗員が取って代わることのできない正確な定時定点の航海を見事にやり遂げることによって乗員を心服させ、艦長の補佐、指揮管理と規律の刷新を図ったことが淡々とした記述の中に読み取るなどができる。

    厳しい状況下での復員船での幾多の苦労と経験が、将来の地方総監、自衛艦隊司令官海上幕僚長統合幕僚会議議長へ登用、活躍される基盤につながっていったように思う。

❸  矢田次夫元統幕議長は、敗戦にともなう戦地(外地)の軍人・軍属と家族など同胞の引き上げ・復員輸送を通して、地獄のような惨劇を目の当たりにして、再びあってはならないとその様相を述べておられる。

    昭和21年6月には、復員輸送もはかどり、充員召集を解除され復員事務官となり、その後、復員庁舞鶴運行部勤務、松江出張所長して赴任し、宿泊所となったお寺との関わり合いで心洗われる勉強したと「慈悲の心と大寒の行」で詳しく述懐しておられる。

   戦後の混乱期の世相は、私も小学高学年となっていたので、当時のことはよく知っている。食べていくのが精一杯の時代であった。

   どの時代、どんな環境であっても、自らの受け止め方、考え方一つで「人生至る所に青山あり」であることに共感するものである。