昭和の航空自衛隊の思い出(422) 自衛隊勤務に対する両親の見守りと両親への報恩

1.   息子の自衛隊勤務についての両親の誇り

 昭和30(1955)年1月の陸上自衛隊への入隊、同年6月航空自衛隊第1期操縦学生としての入隊にあたって、父は同行し、米子駐屯地及び防府南基地の状況確認と凛々しい制服姿を見て帰っていった。末っ子の独り立ち人生の出発点を自分の目で確かめて安堵したことであろう。

    当時は若かったせいか、何の恩義も感じなかったが自分が子の親となってみて、両親の心情が痛いほどよくわかるようになった。父親と入隊先まで一緒であったから当時の列車は石炭であり、車内で長い時間を過ごしたであろう。どんな話を交わしたであろうか。

 結婚するまでは、休暇のたびに帰省し、両親と過ごし語らうことに努めた。特別な助言はなかったが、近況報告に対して、いつの時代もうなずきながら微笑んで見守ってくれた。

 両親には、わが家の先祖のこと、親戚関係のこと、両親の子供時代のことなど積極的に尋ねて知ることができた。両親のもとへ手紙を、定期的に書いていたように記憶している。

    結婚して、家庭を作ってからは.子供達を連れて帰省した。孫の顔を見てその成長ぶりに満足そうであった。

 生まれ育った故郷の集落では、支那事変・満洲事変・大東亜戦争を通じて、青年の多くが軍務に服し戦死者も出たりしたが、多くは無事に帰還した。村中で軍隊での最高位は大尉(1尉)であった。戦後、こうしたことから昭和の時代は軍隊経験のある方が多かっただけに、軍隊組織について多くの人が知っていた。

 自衛隊入隊は、だれからの勧めでもなく自ら進んで志願したものであった。両親は、私の選択した進路を見守り、自衛隊の勤務を心から誇りにしてくれた。この精神的な家族の支えは何物にも代えがたいものであった。一方、私も両親が農業に精を出し一生懸命の実直な生き方を尊敬していた。

 やがて、わたくしが幹部候補生となり、幹部自衛官として活躍していく様子をひそかに誇りにしてくれていたように感じていた。    

2.    陰でひたすら子供を支えた母

 母は、1尉のころ昭和49(1974)年4月82歳で死去した。戦後の苦しい時代に、自家製塩を担いで山奥の集落まで出かけて物々交換でコメを手に入れて食べさせてくれたことがつよ強く記憶に残っている。

    指揮幕僚課程学生時代に千葉県市川市の官舎に20日ほど滞在し、親子の生活をしたのが最後であった。私の家族と一緒に生活しどんな感想を持ったであろうか。今にして顧みると、もっと親孝行しておけばよかったと悔やまれたが、人生とはこんなものであるのかもしれない。

3.  地域社会に奉仕を続けた父

 父は、3佐のころ、昭和51(1976)年7月83歳で亡くなった。温厚で若い時代から周りから推されて、村の指導者となっていた。養蚕組合長、村会議員・教育委員や議会副議長を務めた。老いては老人会の副会長をして、終始みんなに役立つことを積極的に行っていたことが強く印象に残っている。

 戦後の厳しい時代、他所で出されたおいしいものや珍しいものは、手を付けず必ず持ち帰り子供たちに与えてくれたことが強烈に記憶にある。

 浄土真宗の熱心な信徒で、朝はお経をあげるのを日課とした。質素と感謝を旨とした生活信条を貫き通した人格者であった。

    妻は、私が歳をとればとるほど「父親にそっくりだ」という。顔相はそうであろうが、性格や物事の考え方も同じようだ。自衛隊退官後、今日にいたるまで地域の諸活動等に参加したりするのは血筋のせいであろうか。因縁というものであろうか。

4.  孝行したいときには親はなし

 2佐に昇進し、司令部人事担当班長・教育担当科長・人事部長となったころには両親に物心両面にわたって孝行できる年齢となったが、すでに両親とも他界しており、昔からよく言われてきた「孝行したいときには親はなし」であった。、

    生前、人並みに家庭を築き、現職に励み、健康であったことが両親への報恩であった。