昭和の航空自衛隊の思い出(301) 司令部における団司令と人事部長の関係

 昭和58年3月から60年7月まで西部航空警戒管制団司令部人事部長として勤務した。監理・人事・防衛・装備の4部長は、西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令の主要幕僚であり、在任間、本野順三将補・正信恭行将補・田中憲明将補の3代の団司令にお仕えした。当団では司令部人事部長として、指揮官の指揮統率に沿って思い切り働くことができたように思っている。

 指揮官を補佐する主要幕僚 となると、一般の幕僚と違って、所掌業務全般にわたって補佐をする立場にあり、緊密な関係をきづくことになった。実際の経験上から見ると団司令と人事部長である両者の親密度は上下関係の期間と相関関係にあるようにに感じた。それと関連して、団司令との信頼関係が深ければ深いほど部隊活動はもとより諸行事など随行することが多く思い出は尽きないものであった。

   団司令のお人柄を語るのに好適な資料として、当時発行された「服務だより」があった。裃を来た記事ではないだけに、正信団司令・田中団司令の人がらを一番よく表していたので付記した。

1.本野順三将補

  団司令本野順三将補にお仕えしたのは、平成58年3月 司令部人事部長として着任して、6ヶ月の短期間となった。あまりに短いので通常の形通りの上下関係で終わってしまったようで残念であった。これからという時期に転任されてしまった。

 着任前、本野将補とは、第3術科学校第4科長当時、第3術科学校の教育訓練検閲に主任補佐官(教育本部教育部長)として、来校されて受閲した程度で面識がなかった。

通常の幕僚補佐は誠心誠意果たすことができたように記憶している。

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《 昭和58年8月1日付、西警団司令離任記念、前列左から基地業務群司令大塚基家1佐・前副司令桜木久壽雄1佐・団司令本野順三将補・副司令早田匡之1佐・西部防空管制群司令三浦孝寛1佐・整備補給群司令森亨1佐、後列左から安全班長平田3佐・人事部長濵田喜己2佐・防衛部長日下喜伴2佐・装備部長吉田暢輔2佐・監理部長八谷勇喜2佐・衛生班長田崎勝也3佐 》 

 

 2.正信恭行将補

 人事部長着任前においては、正信団司令とは面識がなかったが、要撃管制官時代にその高名は、知る人ぞ知る全国にとどろいておりあこがれの人であったからだった。それは航空自衛隊が昭和29年創設以来逐次米空軍から警戒管制組織を受け継ぎ発展途上の時代において、米空軍主催の列国の要撃戦技競技会においてわが空自を代表して優勝したからであった。当時新進気鋭の要撃管制幹部の一人として活躍されていた。

   正信団司令のお人柄を語るのに好適な資料は、当時発行された「服務だより」であろう。北部航空方面隊司令部幕僚長へ転任されるにあたって編集された記事内容である。 正信団司令の人がらを一番よく表していた。

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《 昭和60年3月15日・西警団司令部人事部人事発行の「服務だより」の抜粋  》

 

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《 昭和59年5月西警団直轄部隊長会議、西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令正信恭行将補、副司令早田匡之1佐のもとに、司令部は監理部長田中五郎2佐 、人事部長濵田喜己2佐、防衛部長日下喜伴2佐、装備部長中俣弘文2佐及び安全班長平田3佐、衛生班長田崎勝也3佐 であった。春日基地所在の隷下部隊長は防空管制群司令三浦孝寛1佐、整備補給群司令森亨1佐、基地業務群司令渕上光雄1佐、第3移動警戒隊長望月靖夫2佐及び警戒資料隊長樗木護3佐であった。

 第7警戒群司令(高尾山分とん基地司令)加藤公明1佐、第17警戒群司令(見島分とん基地司令)渡部成隆2佐、第43警戒群司令(背振山分とん基地司令)原田武久1佐、第19警戒群司令(海栗島分とん基地司令)住谷翰廣2佐、第15警戒群司令(福江島分とん基地司令)江上汎2佐、第13警戒群司令(高畑山分とん基地司令)佐藤久男2佐及び第9警戒群司令(下甑島分とん基地司令)緒方菊雄2佐であったと記憶している。》

 

3.田中憲明将補

 田中将補とは、峯岡サイトにおいて、第44警戒群本部運用班長当時、同じ官舎地区に住居したことがあった。当時防大1期の高射運用幹部としてナイキの指揮所運用隊長として勤務しておられた。こうしたことからお人柄も承知しており、人事部長着任にあたっても親しく受け入れていただいた。

 人事部長として、約2年の経験もあり主要幕僚として積極的に補佐できた。私の空幕勤務により 上下関係は半年間であったのが残念であった。従って期間は短かったが 主要課題の取り組みは思い切り対処できたように記憶している。 

 田中団司令のお人柄を語るのに好適な資料は、当時発行された防衛情報紙「朝雲」新聞と人事部発行の「服務だより」であろう。着任されて間もないころに編集された記事内容である。田中団司令の人がらを一番よく表していた。

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《 昭和60年5月9日朝雲新聞の記事、「一線部隊は今」(40)のルポ「壮年期の自衛隊像」として一面全部を使った西警団を取り上げた特集記事である。17警戒群(見島)を主題に「西の空の守りの目」を詳しく報じた内容であった。その中心となった田中団司令に関する記事  》

 

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《 昭和60年5月人事部発行の「服務だより」、着任されて間もないころに編集された記事 》

 

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《 昭和60年5月西警団直轄部隊長会議、西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令田中憲明将補、副司令早田匡之1佐のもとに、司令部は監理部長田中五郎2佐 、人事部長濵田喜己2佐、防衛部長村松尚2佐 、装備部長中俣弘文2佐及び安全班長西俣隆昭3佐、衛生班長田崎勝也3佐 であった。春日基地所在の隷下部隊長は防空管制群司令三浦孝寛1佐、整備補給群司令近藤将允2佐、基地業務群司令渕上光雄1佐、第3移動警戒隊長望月靖夫2佐及び警戒資料隊長樗木護3佐であった。

 第7警戒群司令(高尾山分とん基地司令)樋口隆士1佐、第17警戒群司令(見島分とん基地司令)渡部成隆2佐、第43警戒群司令(背振山分とん基地司令)藤原忠晴1佐、第19警戒群司令(海栗島分とん基地司令)荒木宗治2佐、第15警戒群司令(福江島分とん基地司令)江上汎2佐、第13警戒群司令(高畑山分とん基地司令)佐藤久男2佐及び第9警戒群司令(下甑島分とん基地司令)緒方菊雄2佐であったと記憶している。》