昭和の航空自衛隊の思い 出(284) 苦労を分かち合う離島サイト交流の推進(3)

1.  離島勤務者の異動管理の課題

    西警団司令部人事部長として、昭和58年3月から60年8月の2年半の在任間、団司令の指導のもと、全力で取り組んだことが「離島勤務者の異動管理」であり、離島勤務者が安心して勤務できる人事管理を推進することであった。

    この離島交流の課題は、警戒管制部隊の創設・展開以来の離島に所在するレ-ダ-サイトの部隊配置・地理的特性からくるものであった。隊員の出身地構成、更に航空自衛隊の沖縄展開による沖縄交流、新編部隊建設等が加わり、血の通った隊員の個別管理、綿密な異動管理・人事管理が求められるようになった。

 ここに取り上げた「服務だより」は、昭和の時代の離島サイト交流に関する悪戦苦闘の記録であった。これは決して成功の記録ではなく、わが国の空を守るため第一線で日夜休むこともなく厳しい環境下の離島で勤務に就いていた隊員の実相を物語るものであった。

 そこには国民の目に触れない、語られない、伝えられない厳しい現実があった。当時の「服務だより」は、離島勤務者の異動交流問題の本質を突いて、実に的確にその状況を記録している。

 

2. 苦労を分かち合う離島交代記

 今回は、「離島交代記」を紹介しよう。

 私が航空 自衛隊に入隊して2年くらいたってから作られた「喜びも悲しみも幾歳月」(昭和32年(1957年)は灯台守の物語でした。監督:木下恵介、主演:佐田啓二高峰秀子、有沢正子、中村賀津雄、桂木洋子で、観音崎灯台の場面からはじまった。全国各地の灯台を転々と勤務する夫婦の情愛と仲間の助け合いの物語がつづられて、若かった私は浜松の映画館で観て感動したものでした。

 航空自衛隊の離島各地で勤務する隊員の様子は、まさしく自衛隊版の「「喜びも悲しみも幾歳月」が展開されていたのです。

 空の守りを主任務とする航空自衛隊において、航空警戒管制組織を運用するのは隊員であり、所要の人的戦力を確保することが必要である。離島サイトは、基地としての機能発揮のためには、各特技職の人員を配置して運営される。

 離島勤務を終えて希望の任地へ赴任する者があれば、交代者となる隊員が離島勤務となる。このロ-テ―ションが円滑に進まなければ、次第に渋滞・遅延し、離島での長期勤務となり、隊員のみならず家族にも大きな影響を及ぼすことになる。

 こうした切実な状況が痛いほどわかるだけに、特に、家族を帯同して離島へ赴任する隊員・家族については、しっかりとホロ―していく必要があり、人事担当として、その後のことが脳裏から忘れることがなかった。

 西警団の離島サイトの異動管理は、本当に大きな課題であった。一時的なものではなく、粘り強い継続実施が必須であった。

 離島勤務者は、黙々と任務を遂行し、厳しい環境に関わらず、任地での生活を住めば都」として乗り切っている姿を拝見し、「将来の生活設計が描ける異動管理の推進」と「所定の年数を立派に勤務した後の希望勤務地の実現」を何としても強力に推進することを心に誓った。

 幸い、次の補職で再び航空自衛隊全般の立場でこれらの諸課題に取り組む機会を与えられることになった。

 この「服務だより」に登場した皆さんは、その後どんな自衛官人生を歩まれたでしょうか、夫君の赴任に伴い一緒に離島へ行かれた奥様、子供さんたちはどのように過ごされたでしょうか。すでに定年退職しておられるでしょう。きっと立派に本務を全うされたことと拝察しています。

   こうしたどちらかというと、ハイライトにならない離島サイト勤務者と家族の支えによって空の守りが行われていることに心から感謝するものです。

 

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《 「離島交代記」は、「離島赴任記」である。隊員のそれぞれの決意や思いが短い言葉の中に秘められていた。灯台守の「喜びも悲しみも幾歳月」は、装備機材の近代化に伴いいつしか器械がとってかわったと聞いているが、国の守りは、装備器材ですべてを取って代わることができないものだ。防空システムを運用する隊員、黙々と任務を果たす隊員の汗と苦労によって成り立っている。当時、この「服務だより」に登場した皆さんはその後どんな自衛官人生を歩まれたであろうか。すでに定年退官、これから迎えられる方、きっと素晴らしい自衛官人生を全うされたであろうと推察します。》