1. 昭和56年~58年当時における術本長及び学校長の方針
昭和56年8月から58年3月までの1年7月の間、 第3術科学校第1教育部の第19代第4科長を務めた。どのような教育環境と教育方針のもとで勤務ししたであろうかと、改めて昭和56年~58年当時の手帳をひもといてみたら、術本長及び学校長の方針をしっかりと書きとめていた。これらを踏まえて現場の教育担当科長として、明確な対処方針をもって職務を遂行したことを覚えている。
初級幹部時代から第一線の作戦部隊で要撃管制官を経験し、人事幕僚として航空総隊各級司令部を勤務したことから、着任にあたって固めていた自らの対処腹案と期せずして全く同じであったことから修正することなく一層自信を強くしたものであった。
❶ 術科教育本部長一之宮真之空将の3項目の重点事項
① 新兵器体系に密着した教育を行うこと。
F-15 SAM-x BADGE-x É―2c
② 作戦運用に密着した教育であれということ。
③ 創意工夫と積極性を発揮して教育の効率化を進めること。
❷ 第3術科学校長 栁田義人将補の指導方針
① 明朗闊達
② 積極進取
❸ 第3術科学校長 福岡靖也将補の指導方針
① 部隊運用に相応した教育の追求
② 積極進取な業務遂行態度
③ 各種危機管理態勢の確立
④ 相互啓発かつ団結
2.人事・教育技術・要務教育担当科長としての感慨
昭和56年8月着任した当時、科長が数か月のうちに2人代ったりしていたが、先任幹部野中宏之3佐以下の教官陣がしっかりしており何の問題もなく教育は進展していた。そのため素早く全般状況を把握して職務を遂行することができた。
人事幹部としては、人事総務教育を担当する第4科長の配置は、是非やってみたい教官職であったが、科長という職務は全体の運営管理 がメインであり教務の担当時間は少ないのは止むを得ない事であった。各教官に大いに腕を振るってもらう環境づくりに重点を置くことにした。
教育現場の責任者として、当時、口外したことはないが、わが胸には「日本一の教育を目指す」ことを秘めていた。
着任するや、 待ったなしの術科教育本部の第3術科学校に対する訓練検閲が控えており、全科員が一致団結して乗り切る巡り合わせとなった。短期間の諸準備であったことから「ピンチはチャンス」と捉え積極的に対処した結果、良好な評価を受けた。
術科教育の基本は、各課程教育は課程主任を中心に進められるものであり、教育の成果は教官と学生の一体感にあると考えていた。
科長としての運営方針である「心に残る教育、身につく教育」をどのように実現していくかに精魂を傾けた。第4科としてまとまりチームもしてこの命題を追求した。
ここでの任務は、学校という組織であるが、それは作戦部隊の最前線の部隊の指揮統率と全く同じで、第4科という教育部隊をいかに指揮統率するかであった。 従って、自分の所感しては術科教育を主任務とした教育部隊に勤務した感慨であった。
第一線部隊から航空総隊の各級司令部勤務経験と指揮幕僚課程を学んだことは、上下の信頼と期待をもたらし、第4科長の職務遂行にあたって大いに役立った。
3. 第4科における担当課程と教育量
術科学校の教育現場は、年度の養成計画に基づき各課程の線表が引かれており、第4科の担当する年間の教育量は次のとおりであった。
❶ 人事幹部課程(19週)・2コース
❷ 上級人事員課程’(16週)・2コース
❸ 中級人事員課程(10週)・1コース
❹ 初級人事員課程(7週)・2コース
❺ 要務特修課程(6週)・3コース
❻ 教育技術課程・幹部(7週)・1コース
教育技術講習・幹部(68時間)・1コース
❼ 総務通信教育(24週)・8~10 コース
こうしてみると、年間の教育実施数はかなりのものであった。
教育の現場を離れてから、退官するまで常に関心を持ってフォローしたことは、第4科長として担当した課程学生が部隊等でどのように活躍しているであろうかということであった。
幸いにして、その後も人事
部門にいたので、当時の手帳には学生の氏名を記録していたことから、人事異動の発令や直接、間接の見聞により活躍の状況を知るたびに手帳を確認して、顔を思い浮かべながら期待どおりの活躍に嬉しくなったものである。
多くの卒業生から長年にわたり便りをもらった。第4科長職は、1年7月の短期間ではあったが、教育任務に従事できたことに深く感謝し誇りとした。
3. 一緒に仕事をした戦友
第4科教官室は、常に活気があり明るかった。教育訓練検閲、教育技術特定監察、特命研究、特命講習等もあり、全教官が結束して対処した。
これらは皆んな一つ一つが平時の戦いであった。戦いである限り勝たねばならない。よくやってくれた。結果はすべて全員で勝ち取ったものであった。まさに「戦友」であった。
1年7ヶ月の在任間、一緒に仕事をした戦友は、野中宏之3佐・星子精健1尉・江口稔1尉・渋田保麿1尉・波多腰(永井)正2尉・中山博2尉・長岡勝義2尉・後藤悟准尉・山中親継
曹長・松村軍城1曹・平野定男1曹・池田直1曹・秋山正道2曹・永岡純一郎2曹・北雅夫士長・小城左親事務官であった。それぞれが教官としての識見・技能にすぐれ、
一騎当千のつわもので本領を発揮した。忘れ難い戦友であった。各人がその後、それぞれの道を歩み昇進し、
航空自衛隊の発展に貢献していった。
したがって、その後どこに行っても感謝あるのみで、今日に至るもその思いは同じである。
4. 第4科長職務の総括
❶ やるべきこと、やらねばならないことをやった満足感があった。
術科学校における教官配置は最初にして最後であり、短期間であったが、自分なりにやるべきことをやったという感じであった。職域の後輩・後継者にどのくらい役立ったかは分からないが、自分なりに全力投球した満足感が残った。
実務に役立つ課程教育の充実のため、全国の部隊等及び人事担当者から人
事業務に当たっての成功・失敗の事例の収集、反省と教訓、さては卒業生からの人
事業務の執務参考資料の提供と積極的な協力支援をいただいた。ありがたいことであった。
❷ 各課程とも教官と学生が一体となった 総力の結集であった。
第4科としての組織的な結集力は素晴らしいものがあった。学生が学んでよかったという満足感を持って卒業させることに重点をおいた。各課程が共通して教官と学生が一体となって盛り上がった。卒業にあたっては夜の部で、課程主任が全教官で観察した結果を川柳調にして色紙的なものを渡し記念とした。
ただ単に課程を卒業したというのではなく、課程で学んだことが
自衛隊生活の中で強く印象に残るものにしたかったがどうであったであろうか。
❸ 教育に従事することの素晴らしさが心に残った。
第3術科学校における教育は、術科教育という限定されたものであったが、有事に役立つ「隊員を育てる」に尽きる。
自衛隊における教育とは何かを改めて問い直し、非常にやりがいのある職務であったことを再認識するとともに
自衛隊勤務において術科教育に従事できたことに感謝した。
教官職を離れてからの醍醐味は、卒業生がその後どのように部隊で活躍していくか常に関心を持ち静かに見守ることができたことであった。ほんのわずかな出会いではあったが教え子たちが羽ばたいていくのが秘かな楽しみでもあった。
第4科教官陣
《 上級人事員課程主任星子精健1尉・筆者第4科長濵田喜己2佐・先任幹部兼要務特修課程主任野中宏之3佐 》
《 人事教官池田直1曹・筆者・中級・初級人事員課程主任波多腰( 永井)2尉・人事教官秋山正道2曹 》
《 人事教官小城左親事務官・筆者・人事教官後藤悟准尉 》
《 教育技術課程教官平野定男1曹・筆者 》
5. 思いで多い芦屋の1年9か月
《 3術校幹部会研修、上左は、車中の学校長兼芦屋基地司令福岡靖也将補に呼ばれて補助席に座った。校長官舎に招かれ猪肉をごちそうになったこともあった。右下は第4科教官左から人事幹部課程主任江口稔1尉・筆者・教育技術課程主任渋田保磨1尉、中級・初級人事員級課程主任は波多腰(永井)正2尉 》
《 各課程は入校直後の団結会、忘年会、卒業時の送別会などを基地クラブで開いた。お呼びがかかれば全部参加することにした。基地クラブでのカラオケで演歌を披露した。 》
《 要務特修課程学生一同が卒業パーティで筆者の名前を入れて進呈してくれたものである。自衛隊の人的戦力の骨幹となる先任空曹に、あえて「上司の望む先任空曹5章」などを問いかけた思いをどのように受け止めてくれたであろうか。》