昭和の航空自衛隊の思い出(210) 人事異動と子供の転校

1.人事異動と子供の転校

 35年余の自衛官生活で人事異動・転勤と3人の子供の転校は一対であり、子どもは自分の意志に関わらず慣れ親しんだ学校、友達と別れることになった。ほぼ2年ごとに転勤したので、親には言えない子供なりの人知れぬ苦労があったであろう。何も言わなかったところを見ると最後まで親には弱音を吐かず胸に秘めたであろうと想像する。子どもにとっても親の転勤は厳しい人生であったが、曲がりなりにも何とか乗り越えて成長した。

 子供の転校に関し、親にとって一番の心配、気がかりは、どのように転校先で受け入れられるか、環境にいち早くなじめるようになるのか、友達ができるかであった。学力低下をどうするかであった。

 昭和の40~50年代はいじめの問題は顕在化していなかったが、後年、成人してから聞いてみるとそれに類したことはあったように感じている。

 特に、最初にして最後の指揮幕僚課程選抜1次を受験したが、合否発表前に異動の内示を受けた。その後1次に合格するも、2次の成算は全く分からないところから当初の異動の内示どおり昭和47年3月入間から浜松へ転勤した。その後、2次試験に挑戦し合格したため、3か月余にして同年7月、東京市ヶ谷所在の幹部学校へ転任し指揮幕僚課程へ入校、1年間の修学後、新任地春日へ転勤した。

 この間、子供たちは、浜松市へ転校するも3か月余で市川市へ転校、1年の在学後に再び九州大野城市へ転校した。いずれも学年の中途であり親より子供の方が大変であった。私はこうした親の転勤に伴う転校については、子供に大きな精神的な負担などの厳しさがあったが、敢えて帯同し家族が一緒に生活することを選んだ。今でもその考えと判断は適切であったと思っている。

 

2.転勤と家族についての人生観

 そこには、私の家族に関する人生観があった。長男だけは事情によりある期間、妻の両親に育ててもらったことがあるが、「一緒にいること、一緒に生活すること、一緒に困難を乗り切ること」にあった。

 若い時代に、結婚間もない妻が長男を出産して間もなく、産後の肥立ちが悪く忽然と逝去した。悲しくも厳しい運命を経験した。こうした経験から人生は一度しかない、一度しかない人生の荒浪を乗り切るには、家族は一緒に住み助け合うことであると固い信念を持つに至った。

 後年、子供の高校の転校については厳しいものがあり、約3年間止む無く単身赴任を余儀なくされたこともあったが、総じてその信念を貫ら抜き通すことができた。

 長い人生においては、親の職業等によって子どもが最も親を必要としているときにいてやれなかったりと状況は千差万別である。厳しい環境を糧に乗り切れる子、逆に乗り切れない子さまざまである。そこにあるのはどんな状況に直面しても家族が一緒になって困難を乗り切る一体感、心の結びつきがないと崩壊することがある。

 どんな選択をするにしても、子供に対する夫婦の考え方や価値観が同じでないと亀裂を生むことになってくる。ひとことで言えない難しさがあった。

 

3.人事幕僚としての大きな課題

 人事幕僚として、特に沖縄交流、離島サイト勤務者の人事管理は最大の課題であった。現場の部隊長の状況報告を詳細に把握し、時には現地に行って確認して適時適切に対応することに心掛けた。

 厳しい任務を遂行する上で、部隊運用上の要求から離島・へき地等へ所在する部隊への所要人員の充足に伴う異動からくる諸問題の適時適切な対処であった。特に家族に関わる事柄は、誠心誠意人事幕僚として全力で取り組み各級指揮官の指揮統率を支えることに努めた。

 このテ-マは永遠の課題であり、後年、各部署において人事担当者として取り組んでいくことになる。