昭和の航空自衛隊の思い出(98) 第44警戒群本部幕僚勤務の経験

1.部隊の全般に関わる経験

 昭和群39年6月から41年5月までの2年間、群本部運用班長を命じられた。群本部は司令、副司令の下に幕僚組織として総務人事班、運用班及び衛生班があった。直轄部隊として監視管制隊、通信電子隊及び基地業務隊から成り立っていた。

 運用班は、警備・防衛・運用・情報及び部隊訓練等を担当していた。配置はベテランの要撃管制幹部の1尉のポストであったが、2尉になり立ての頃の私が起用されたのは、理由はよく分からなかったが、身体状況等が考慮されて配置されたのではないかと思われる。(管制教育団の要撃管制幹部英語教育時に球技で強烈な球が耳に当たり鼓膜の一部が傷つき治療を受けた。後年修復した。)

 このポストは、防衛運用の分野の諸計画の企画・調整・作成及び実施を主としており、本来1尉の古参クラスの配置であったが、2尉のなり立てで配置となった。初体験することも多かったが、不思議なことにこのポストは数年前からやっているような感じで、割りあいのびのびと職務ができた。私にとっては、郡本部にあって分屯基地の全般を勉強する機会を与えられて、得難い経験を積むことができた。

2.忘れ難い上下の人間関係

 運用班は班長と空曹2名であった。空曹はベテランの高田茂1曹、小山金也2曹がよく補佐をしてくれた。幸い諸行事・訓練等の計画は部内幹候に進む前の空曹時代に1術校総務課で徹底的に鍛えられていたので、自信を持って業務を進めることができた。

 空曹に昇任後、若く柔軟性があって向上心旺盛な時に、実に良く指導していただいた 1術校総務課の上司・先輩諸兄のお陰であった。感謝してしきれないほどであった。こうしたことから後年、私は自分の直接の部下に対しては厳しく育てることに心掛けたものである。自分の受けた恩を後輩・後継者を通じて返したいという気持ちであった。

 昭和36年9月第44警戒群に着任し、監視管制隊で要撃管制官の現場を3年間経験し、更に群本部で防衛運用の立場からの幕僚業務を2年間経験することになった。その間、5年間であった。

 運用班長の職務は、対外的な事柄も多く、職務上、警備担当の立場から千葉県所在の陸上、海上自衛隊等との連絡調整・研修会・会議にも出席したりして、要撃管制の専門的な分野から離れて幅広い業務を担当することになって、一層、視野が広がり、物の見方・考え方が広がり深くなった。

 郡本部における上官は、予備学生出身で要撃管制畑の第44警戒群司令・峯岡山分屯基地司令上原惠次1佐、総務人事畑の副司令髙橋淳2佐、次いで通信電子畑の副司令柴田紀元2佐でそれぞれの分野にわたって鍛えていただいた。

 特に、幕僚業務について、指揮官の意図をしっかりと把握して策案するなどを髙橋、柴田両副司令からは親しく学ぶことができた。本当に心服できる上司であり誠心誠意仕えることができた。上原司令とは不思議な縁で、その後、人事分野へ転進した折、中部航空警戒管制団基地業務群司令のもとで再び人事班長として幕僚を務めることとなった。私の35年余の自衛官生活の中で再び直接の上司・部下との関係となったのは上原司令だけであった。 

 こうしたことから上原惠次司令・髙橋淳、柴田紀元両副司令には、自衛隊在隊間はもとより退官後に至るも何十年たってご指導とご厚誼をいただいてきた。ありがたい人間関係であった。

 

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《 郡本部運用班長当時、昭和40年峰岡山サイトで中空司司令部防衛部長、指揮班長を囲んでの研修会の記念写真、前列左から2番目上原惠次群司令、右端は松田鉄之助監視管制隊長、中空隷下サイトの主要な要撃管制幹部が顔をそろえており、後年サイト長等主要な指揮官になっていった。背後の宿舎はかまぼこ兵舎であった。小生は2列の右端 》 

 

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 《 郡本部運用班長当時、昭和40年9月 筑波山無線中継所研修、九十九里浜にて、前列右3番目から小生、宮崎通電隊長、柴田副司令 》