昭和の航空自衛隊の思い出(77)   初級幹部として新進路

1.  航空戦力の一翼を担う要撃管制幹部を選んだ 

   部内幹候選抜試験を受験するにあたって、全く未知の「要撃管制幹部」を志望した。航空自衛隊の主任務である空の守り・防空作戦の一翼を担う要撃管制官を選んだ。直接的に作戦運用面で働きたいとの願望が強かった。

   その背景には、第1期操縦学生として入隊し、操縦者として防空の第一線に立っている同期生の彼らと一緒に日本の空を守ろうと言う情熱・意気・気概であったように記憶している。

 特に、要撃管制という分野は、新しい防空システムの導入が着手されようとしていた時代で、人材の確保と教育訓練が急ピッチで進んでいた。

   ただ、当時の私は、警戒管制部隊についての知識は防空作戦の概念を学んだ程度で、実務の実態を承知していたものではなかった。幹部候補生課程が進むにつれて、実際に警戒管制部隊で勤務していた候補生の話を聞いて離島等における厳しい勤務環境の実態を知った。しかし、初心は揺るがなかった。  

防空作戦の例

 

《 防衛白書1988年度から出典 》

 

 2. 未知の要撃幹幹部への挑戦

  昭和30年代初頭から航空自衛隊は、わが国周辺のほぼ全空域を常時継続的に警戒監視するために、要員を配置して米軍から学びつつ、航空警戒管制部隊を逐次整備しつつあった。

   米軍が運用していたレ-ダ-基地は航空自衛隊逐次移管されつつあった。米国へ留学して要撃管制運用技術を学んだ要撃管制官が現場部隊の中核となって活動していった。教育も小牧基地の管制教育団(現第5術科学校)で国内教育が行われるようになった。

 時は、航空自衛隊全体が創設期・建設期の途上にあり、新しいことに挑戦する人材を求めていた時代であった。

   その点では、新しいことに躊躇なく挑戦することに燃える性格であったせいか、何のためらいと違和感もなかった。当初の志望の通り幹部候補生課程を卒業するや要撃管制幹部の道を進むことになった。最初の勤務地は千葉県鴨川市の峰岡山のⅮÇ防空指令所であった。

   顧みて若い時期に作戦運用部門へ進み学び経験したことが、その後の長い自衛官人生を歩むうえで作戦運用を主軸とした現実的なものの見方、考え方、生き方に役立っことになった。

 3.   未知の世界への挑戦DNA

   35年余の自衛隊勤務を終え定年退職するに当たって、先輩の勧めと第2の人生はやったことのない未知の世界へ挑戦したいとの思い、さらには自衛隊で培った知識・経験がどの位役立つのかといったことから、全く知識経験もなかった自賠責保険の公正な運用を図る自動車保険料率算定会(現保険料率算出機構)調査事務所を選んだ。 

   この組織の特色は、現場の調査事務所は、損害調査職員全員が定年退職者で、かつ管理職の経験がある。入社したら全員が前職の役職・地位に関係なく、新人の立場から始めることであったことである。

   こうしたことを承知の上で採用試験を受け運よく就職した。まさしく平成2年4月入社した同期全員が一般調査員となって損害調査に従事した。全員が一から始めることが魅力であった。             

   未知の分野は厳しいことの連続であったが、壁を乗り越えると、航空自衛隊で培った新しいことへの挑戦と経験が活きてきたのか自分でも不思議なくらい意外に順応できた。これは未知の世界へ躊躇することなく挑戦するDNAを持ち合わせていたのかもしれないと思うことがある。 

 

  • f:id:y_hamada:20150114115044j:plain《 自衛隊を定年退官するや、平成2年4月自動車保険料率算定会静岡調査事務所に入所した。静岡・浜松で勤務し各種業務を経験しながら認定医調課長、一般調査課長を経て、平成9年4月、静岡調査事務所長として3年間勤務した。1年目は静岡と沼津の統合準備を行った。2年目は、統合実施と事務所の円滑な運営、特に、2個の課が4個・一般調査課2個、認定課および医調課となり、所員数が38名と名古屋に次ぐ大事務所となったことから事務所の円滑な運営と所員の融和団結をいかにするかを重点に基盤の確立に心血を注いだ。3年目は、事務所の各部門の強化と次に予定される浜松とのさらなる統合に向けての準備を始めた。最後は浜松調査事務所長へ転じて静岡への統合に向けての準備業務をすことになった。 その後、静岡調査事務所は静岡県下のすべてを担当するようになった。現在の保険料率算出機構静岡調査事務所は50数名の大規模事務所となって運営されている。

 

 

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《 静岡調査事務所の全職員 》

 

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 《 静岡調査事務所で毎月1回は全員が集まって所内会議を開き、所内運営の円滑化を図った。 》

 

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 《 静岡調査事務所時代 》