昭和の航空自衛隊の思い出(73) 平城宮跡での訓練

1. 平城宮跡での訓練

 昭和35年2月、航空自衛隊幹部候補生学校に入校し、第23期幹部候補生課程(部内)で10か月間、初級幹部自衛官として の職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練に励んだ。

  訓練の中で特別にいつまでも記憶に残っている一つに、後年、特別史跡として有名になった平城宮跡で基本訓練したことである。当時、この区域は全面に雑草が茂った雑草地で何もない草原であった。多分その国有地の一角での訓練であったように覚えている。

 平城宮跡法華寺町の幹部候補生学校から近いところにあり、徒歩で移動したように記憶している。この地が平城宮跡であることは知っていたが、歴史的な遺産が大量に発掘される以前であった。当時の記録では「平城宮祉」と残っている。

 今から55年前のことであるので、平城宮跡に関する資料をひもといてみると、訓練をした数年後、近鉄の車検区が計画されたくらいであるからかなり長い間草が生い茂る野原であったのであろうか。それにしても古の都の上を駈けずり回った程度であるが、不思議と歴史的遺産との縁があるようであった。後年、同期生会を奈良で開いた折も話題になった。

   平城宮に1998年(平成10)春、朱雀門と東院庭園が復原された。平城宮は奈良の古都平城京大内裏で、同年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された。

 その後、同地を訪れた時に、 整備された平城宮跡を見学して、幹部候補生時代に広い野原の一角で訓練をした往時が思い出され感慨無量であった。眠れる古き都の上で候補生が育まれたという思いが強く感謝している。古き時代であった。

 

2.  現在の平城宮跡

 平城宮跡 - 奈良市観光協会公式ホームページ から転載(出典)

 

 


 

平城宮は、710年(和銅3)平城京の北部中央に、東西約1.3キロ、南北約1キロの地を占めて営まれました。ここには、天皇の住まいである内裏や国家的な儀式や政治の場である大極殿・朝堂院のほか、たくさんの役所が立ちならんでいました。いまでいえば、皇居と霞ヶ関の官庁街を併せたようなところでした。平城宮の四方には、高さ5メートルの築地塀がめぐらされ、それぞれに三つずつ併せて12の門があり、南の正面中央の門が朱雀門でした。
 都が長岡京から平安京に移ったあとは、田んぼになって長い間忘れられてきました。江戸時代の末になって、藤堂藩の大和古市奉行所に勤めた北浦定政の実測研究によって、平城宮の規模が明らかになりました。1900年(明治33)奈良県技師だった関野貞が、大極殿の跡を明らかにしてその保存を訴えました。これに応えて、奈良の植木商棚田嘉十郎が私財を投げうって保存運動に努めました。その死後になりましたが、22年(大正11)大極殿と朝堂院の跡が史跡の指定を受け、翌年国有地にすることができました。
 平城宮跡の発掘調査は、1954年(昭和29)北辺の道路の拡張工事に伴う緊急調査が始まりです。その後59年(昭和34)から、奈良国立文化財研究所が本格的な調査をすすめることになりました。62年(昭和37)のこと、近鉄が宮跡に検車区をつくる計画を立てました。日本で初めての木簡が発見されるなど、すでに大きな成果があがっていたこともあって、奈良はもとより全国的に、平城宮跡を守る運動がおこり、翌63年近鉄は計画を断念、宮跡全域の国費買上げが実現しました。66年(昭和41)にも、宮跡東部に国道のバイパスを通す計画が具体化しましたが、この時も世論の力で宮跡を守ることができました。
 これまでに宮跡の3分の1の調査が終わりましたが、宮殿や役所の跡がつぎつぎに明らかになり、約5万点にのぼる木簡をはじめ、土器や瓦、生活用具などたくさんの遺物が発見されています。発掘調査がすすめばすすむほど、平城宮跡が世界に比類のない地下遺構、歴史の宝庫であることが明らかになってきました。
 1998年(平成10)春、朱雀門と東院庭園が復原されました。いま朱雀門は、朱の色も鮮やかに「光ふる街 奈良」の未来を象徴するかのように、広々とした平城宮跡の空に輝きをみせています。  

 

 訓練の状況

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 《 訓練で雑草地を駆けずり回った。当時は人影もなく起伏に富んでいた。》