昭和の陸上自衛隊の思い出(11 ) 「徒然の記」 非常呼集、消灯ラッパ

陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」

 この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。

 *現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【  】に加えることにした。

 

 14.   非常呼集    

    世の明ける頃、突然「非常呼集」の声にたたき起こされ、暗闇の中で服装を整え、背嚢を背負って舎前に整列し、点呼を取るのが日常茶飯事であった。

   その上、ライフル銃を「支え銃 」のまま駆け足していると、しっかりと靴紐を結んでいないと、紐は緩み、背のうを正しく整えていないとくずれるなど、手を抜いたところは時間とともにばれる仕掛けである。

    班長たちは、この辺のところを十分心得て走らせているわけである。

    大部分の者にとっては、この駆け足は苦難の訓練であったようだ。若い私にとってはあまり苦にならなかった。

    こうした呼集訓練は、大抵早朝にかかる場合が多かったものだから、中には作業服装で靴下を着け、ベッドに潜り込み、班長たちの目をごまかそうとする不心得者が続出したことがある。

    一人現れると連鎖反応があるの、他人より早く起床動作を短縮して、点呼場に一番乗りしようと野心を抱くわけである。

    助教たちは、こうした摘発して回り作業服や靴下を脱がされる者があった。

【  慣れてくれば落ち着いて順序よく着実に装備を着けていけばよいが、最初は慌ててなかなかうまくいかないものだ。

 新入隊員にとっては、非常時で暗闇の中でも冷静沈着、迅速な動作ができるようになるには、訓練・訓練・訓練以外ない。何回もやっているうちに要領を覚えてコツも分かり、次第に連度が上がっていった。

 一番若かったせいもあって、あまり苦にもならなかったことを覚えている。反復訓練は重要なことである。航空自衛隊で第1期操縦学生に進んだ時は、十分経験していたので余裕綽々であった。後年、非常呼集で官舎から登庁するときも若い時代の訓練が役立ってきた。】

 

15.  消灯ラッパ

     厳しくも時間に追われた訓練を終えて、消灯時間になって、ベッドの中に潜り込むのは新隊員にとって唯一の楽しみであった。

   消灯時のラッパの音は実になんともいえない哀愁に満ちた音色である。

     各国の軍隊でも消灯ラッパは同じらしく、どうしてこんなにも物悲しい淋しいものであろうか。ラッパの音を聴きながら、両親のこと、高校時代のこと、将来のこと等を思ったものである。

 

【   新隊員で毎日の厳しい訓練に明け暮れて、ベッドに入って静かに眠りにつく頃、消灯ラッパの音色は実に人の心を癒すものだと思った。

    時には、物悲しく聴こえる時もあれば、子守唄のように聞こえた時もあった。人の心に響くもの、感動を与えるものがあったからであろう。これも一つの名曲であるといえる。それだけ感受性の強かった青春時代であったからであろうか。

     ラッパの譜は、日課から栄誉礼等様々であるが、毎日の日課の号音となる起床、点呼、食事、課業開始、命令受領、課業終了、非常呼集、消灯などラッパの音色は様々だ。当時はラッパ手が吹奏していたように記憶している。時代とともにテ-プが使われてきたようだ。

 自衛隊静岡音楽祭などでも音楽隊の演奏のほかラッパ隊の吹奏が行われ、一般の方にも好評である。そこには隊員の勤務・生活と一体となるものが感じとられ、誰にでも分かるからであろう。】

    

.