昭和の航空自衛隊の思い出(29)   私にとっての第1期操縦学生基本課程 

2.悔いなきわが青春! 切磋琢磨・友情を培った操縦学生基本課程!

 わが航空自衛官の人生航路は、昭和30年6月の操縦学生基本課程から始まった。基本課程はわずか10ケ月であったが、何年分をも凝縮したような内容であった。悔いなき青春時代であった。

    人生においては、日数や期間ではないということがあるものだ。私にとって操縦学生基本課程ぱまさにそのとおりであった。期間だけで言えば,長い人生の中では,何十分の一であるかもしれないが、この10ケ月は実に私の人生に絶大な影響を与えるものがあった。

 私は、現在、60年前に学んだ操縦学生基本課程を次のように受け止めている。 

❶ いまだかってない操縦者養成の新制度であり、操縦学生の創設期においては、制度・教育訓練・環境等は不十分であったが、全くそれを感じず、活模範となる上級生がいないため、すべてにわたって自分たちが作り上げる意気に燃え乗り越えていった。

❷ 戦後初の操縦学生の募集・受験・入校で大学等を休学してきたものが多かった。

操縦学生の位置づけを新空軍の航空士官学校?かなどと各人や親たちの受け止め方がまちまちであった。「操縦学生隊」の所属自体が、幹部学校、幹部候補生学校であり、そのように思うのもやむを得ないことであった。

❸ 学生生活は、若者らしい自由な雰囲気に溢れ、のびのびとした元気集団であった。陸上自衛隊の新隊員生活を経験してきたのでこんな世界があったのかと思うほど自主性と自律が重視された開かれたものであった。

❹ 30倍以上の競争率を経て、約200名入校したが、一騎当千の強者の集団であった。個性豊かな人材の集団であった。優秀な操縦者の多くが中途で民間航空等に転進していったが、昇進等の処遇面から見ると結果的には官民双方に良い結果をもたらした。

❺ わずか10ケ月の基本課程であったが、今日に至るも入隊60周年を迎える同期生会を営々として継続してきた底力は、第1期生のの誇りと同期の絆にあった。今日の充実した航空学生制度と航空自衛隊の操縦者の中核をなす原点であった。

 

操縦学基本課程の一コマ

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《 昭和30年の周防の国・山口県防府市にある航空自衛隊防府南基地、上空からの写真、当時、海岸には広大な塩田が展開していた。基地の周囲は田園地帯だった。》

 

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《 昭和30年62日日周防の国・防府基地の幹部学校《操縦学生基本課程》に入校した第3区隊の若人! 学校長島島田航一将補、教育部長橋島芳雄1佐、操縦学生隊長辻秀雄3佐及び区隊監事(区隊長)第1区隊長岩本展一2尉・第2区隊長酒井真2尉・第3区隊長豊釜勇2尉・第4区隊長斎藤欣二2尉の区隊長豊釜勇2尉であった。 》

 

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《 三田尻海岸で水泳訓練!水泳訓練場への往復は、徒歩行軍だった! 鍛えられてみんな逞しくなってきた。》

 

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《 「がまさん」と親しまれた豊釜勇第3区隊長の愛情こもった厳しい指導をうけた! 今日も1期生会には毎回来賓としてお招きしている。》

 

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《 昭和30年、暑い夏の夜の自習時間に集合、裸電球、扇風機なし、あるのは元気だ!裸同士の付き合いだ! 》

 

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《 昭和30年、蒸し風呂の真夏の教室、裸電球、扇風機なし、上は下着一枚での授業だ、これが当時の日本だつた。さすが教官は作業服だった。 》