昭和の航空自衛隊の思い出(180)  准尉・空曹及び空士の異動管理

1.初めての異動候補者の人選

 昭和36年9月から中部航空警戒管制団にあって、要撃管制幹部、副官を経て人事幹部課程を終了し、整備補給群本部総務人事班長、次いで基地業務群本部人事班長の配置についた。航空自衛隊が建設期にあったことから新編・改編部隊の要員を選定して上級司令部に報告する業務が多かった。

 既存部隊から新編部隊の編成要員、離島サイト等への交流要員として准尉・空曹及び空士の差出が目白押しであった。各隊長が准尉・空曹及び空士の異動要員の選定にあたっては、人事幹部としての立場から次の考え方を持って、アドバイスしたり、人事調整段階から何回も現場に足を運んで考慮に入れてもらうよう努めた。

 この考えは、指揮官及び人事幕僚として退官するまでもちつづけた。

 「惜しまれる人材」「喜ばれる人材」・適任者の選定

 当時、航空自衛隊は建設途上にあったので、新編部隊要員、離島サイト等への准尉・空曹及び空士の交流要員には部隊の中でも「惜しまれる人材」から選考することに努めた。

 隊長としては、自分の手元に優秀な人材を抱えておきたいと思う心情が強いのが常であるが、航空自衛隊全体の見地から新編部隊、離島サイト等から「喜ばれる人材」を送りだすことに重点をおいた。

 それは「惜しまれる人材」「喜ばれる人材」を送りだした部隊には、当該部隊の人的戦力の中にそれを育て伸ばす環境や伝統等が備わっており、将来にわたって優秀な部隊として存在しうるからであった。

 准尉・空曹及び空士の場合の異動は、主として任務遂上であるが、こうした機会を有効に生かして部隊の人的戦力の向上に良い影響をあたえることに努めた。   

❷ 異動要員にとって新任地・配置は必ず良い結果をもたらす

 異動要員を選考するにあたっては、求められる階級・特技ㇾベル・資格などがある。これに適した人材を選考するにあたっては、部隊の中で資質能力発揮が頂点に差し掛かった・今後さらに活躍が期待されると思われる人材から選抜してもらうようアドバイスをした。

 当然そこに達するには同一部隊・長期にわたって固定配置にある場合が多く、異動によって新しい厳しい環境、新たな部隊・配置が更なる能力の伸長につながるとの期待からであった。新任地の部隊で今まで培った持てる実力を発揮して「素早く頭角を現す期待される人材」「更に識見技能に磨きをかける機会」に繋がっていくこと間違いないからであった。こうした人たちは期待通り新らしい人的戦力となって活躍してくれたものである。

 幹部自衛官の場合と同様に、資質能力に優れた准尉・空曹及び空士には他流試合や他部隊勤務経験の機会を与えることが個人の資質能力の向上に資するとともに部隊人的戦力の向上に繋がると考えたからであった。

 

2.准尉及び空曹・空士の異動管理

 昭和の航空自衛隊の建設期における准尉・空曹及び空士の異動管理の考え方は、昭和50年ごろ制定された「准空尉 、空曹及び空士自衛官の経歴管理基準」によって実施されてきた。基準制定に至るまでも大体同じような考えで行われたように記憶している。

 当然、現在は時代とともに全面的に経歴管理基準が改正されているものと思われる。

   時代を取り巻く新しい任務、勤務環境、交通手段、持家・家族生活・子供の教育、隊員の意識などに対応し、異動管理の方策はより良いものに改善されているものと思われるからである。

 昭和の時代の異動管理は、大体次のような考え方であったように記憶している。

❶ 基本事項

  異動管理は、任務上の要求を基本とし、個人の福祉との調和を図りつつ実施する。

❷ 異動管理

 昇任、特技の保持等について個人に不利益を与えないよう実施する。任務上の要求による異動にあたっては、過去の異動回数及び他部隊等における勤務年数等を考慮し、異動の精神的、物質的負担の均衡を図る。

❸ 任務上の要求による異動

 充足及び新改編に伴う異動、沖縄交流における沖縄への異動、サイト交流におけるサイトへの異動、教官交流、地連交流、特別の理由による異動等であつた。これらの異動は任務上から本人の意思に反してでも行わなければならないものであった。

 創設期から航空自衛隊の准尉・空曹及び空士の異動は、任務上、運用上の要求によるものが主体であったが、部隊では機械的な人選ではなくきめ細かな指導と人選が行われた結果、実際は隊員の積極的な希望・納得・同意によって異動管理は適切に行われていた。

 個人の意志に反して異動した事例は聞いたことがないが、当時の隊員の意識調査などでは、沖縄及びサイト交流に関わる異動についての意識は、約40%が異動を希望する。約60%が異動を希望しないであったように記憶している。

 異動に関しての適切な指導は、一貫した人事管理及び処遇と一体のものであり、一番苦労があった。それを円滑に進めた根源は部下隊員と接する指揮官の指揮統率と自衛官個人の人生設計への配慮であった。

 離島などの厳しい勤務などは長い自衛官生活の中でお互いが勤務を負担し合うことによって成り立っていることを理解して行われていたが、これらは今も昭和も同じであろう。

 多くの場合、離島等であっても「至る所に青山あり」、「住めば都」で厳しい任務をやり遂げた満足感で勤務を終えている。今だかって、苦労はしても後悔をしたとの話は聞いたことがない。そこには自分たちが厳しい困難な任務をやり遂げた、恵まれない環境を切り開いたという自負心と任務達成感なる強い思いがあったのではなかろうか。

 今や国際貢献など海外での活動など部隊単位の活動が多くなった。時と場所は異なれども厳しい勤務に変わりはないのではなかろうか。

 詳しくは、航空警戒管制団司令部人事部長として、離島サイト勤務者の人事管理で精魂を込めてその改善向上に努めた時代の項で述べることとする。