昭和48年7月から2年間西部航空方面隊司令部勤務において大野城市の筒井官舎に住んだ。毎週末には家内と一緒に近くの西鉄の春日原駅付近(多分?)に立つ魚市に出かけると新鮮な魚が安く買えた。1箱何ぼといったたぐいで産地直送でとにかく安かった記憶が鮮明である。
お目当ての魚があれば、そこに集まってくる人たちがだれかれともなく声を掛け合って2~3人で1箱を買いその場で等分するやり方であった。その売れ行きたるやすさまじく、一種の街の風物詩であった。
日本海の海岸近くで育った私にとっては小学生の頃から、鳥取県の湯梨浜町の宇野島で素潜りで魚を獲った思い出があり、新鮮な魚介類は海の幸そのものであった。春日基地勤務は食の面で種類が豊富でしかも安く新鮮な魚介類が多く豊かな生活を過ごすことができた。
何十年も前のこととなったが、住みやすい町、人情豊かな町との印象が今も強く残っている。
2.太宰府天満宮・学問の神様と梅ケ枝餅
大宰府天満宮には、しばしば家族5人がそろって車で行った。昼間は観光客でいっぱいであった境内も夕方になると静かになる。夏場は仕事が終わってから車で15分ぐらいで太宰府天満宮の境内入口に乗りつけて、お参りをした後、お店で梅ケ枝餅を食べたものである。
数知れずしばしば訪れ、境内の隅から隅まで歩いたりしたが、半世紀もたつと忘れることが多いが、あの梅が餅の食感は何とも言えないものがあった。大宰府天満宮にお参りすれば必ず梅ケ枝餅となっており、その後他へ転勤しても、大宰府天満宮・梅ケ枝餅と聞いただけでも懐かしいものだった。
その後、8年後に、昭和58年3月春日基地の西部航空警戒管制団司令部人事部長として着任した時、早速、大宰府天満宮へ参拝し着任の報告をするとともに懐かしの梅ケ枝餅を味わうことになった。
学問の神様であることから親戚から受験のお札を頼まれたりすることがあった。太宰府周辺の遺跡なども見学して回りあれやこれやと懐かしい思い出の地である。
天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられ、「学問・
太宰府天満宮は、
成り立ち
道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった
長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。
《 太宰府天満宮 インタ-ネットから 》
梅ケ枝餅
《 梅ケ枝餅のネット出典 》