昭和の航空自衛隊の思い出(166 ) 忘れ難い一声「博多のもんじゃけん」

 全国各地を転勤した中で数々の忘れ難い出来事がある。その一つにその「土地の人情」に触れた時である。

     昭和48年7月14日、第21期指揮幕僚課程を修了し、7月16日西部航空方面隊司令部勤務を命じられた。転居に伴う家具家財は、引越トラックコンテナで輸送し、家族全員が自家用車で移動した。東京、浜松を経由して午後、神戸でカ-フェリ-に乗船、一晩船中にあって翌朝、九州は小倉に到着・下船し福岡県大野城市筒井の官舎に向かった。

 初めての長距離の移動で、しかも地理不案内ときたから時折、地図で確認しながらの走行であった。大野城市内に入ってから、突然、エンジントラブルで車が動かなくなってしまった。

 家族全員が後押しをして再起動を試みていたところ、通りがかりの運転手が止まって、故障状況を確認すると、自主的に付近のガソリンスタンドの修理工場まで引っ張っていってくれた。幸いすぐに修理することができた。

 近くの修理工場に着いてから、親切な運転手さんに住所氏名等を聞いて、後で御礼をしようと、尋ねると《博多のもんじゃけん》といってくれただけで、住所氏名も教えてもらえず、さっさと遠くへ去っていってしまった。

 この一声と親切心ほど長い自衛隊生活の中で強く印象に残ったことはない。エンコした一台の小型車、妻と子供二人が一生懸命車の後押しをしている姿が目に留まり助けてくださったに違いない。

 携帯もない時代、ましてやナビなどない時代である。全く赤の他人が苦労をしている状況を目撃しての自然な行為であったであろうか。親切が心にしみた。指揮幕僚課程を修了しての初の赴任地に意気揚々と着任しようとしていた矢先の出来事であった。

 このことから博多市・春日市大野城市その周辺が気に入った。いっぺんに九州の良さ、とりわけ土地柄、人情に惚れることになった。その後、縁あってか、2回、人情豊かな芦屋基地へ教育科長と春日基地へ人事部長として勤務することになった。今もって夫婦ともに鮮明に覚えているから不思議である。

 「博多のもんじゃけん」さんに親切にしていただいた御礼は、いつか別の形でお返しをしたいとの思いで生活するようになった。