昭和の航空自衛隊の思い出(91) 米軍将校と肩を並べて職務に就く

1.わが小隊クル―と米軍連絡将校

 昭和36年から39年まで峯岡山分屯基地に所在する第44警戒群の防空指令所(DC)に勤務した。米空軍は、日本側に警戒管制組織織を移管しが、日米の協定により米軍チ-ムは防空管制所(CⅭ)と一部の防空指令所(DC)に米空軍連絡将校を配置していた。もちろん指揮系統は両国それぞれの指揮系統で運用されていた。

 上番のクル-は、小隊長以下所要の要撃管制官及隊員で編成されており、上番から下番し隊舎地区に戻り解散するまでは厳正な指揮のもとに行動していた。特に真夜中の勤務交代の車両による移動は暗闇の中の行動であり事故防止に万全を期したものだった。オペレ-ション室に入ると所定の配置につき、小隊長の務める先任指令官の指揮下において任務を遂行していた。

 オペレ-ション室は最上段のフロァの中央に先任指令官が位置し、すべて全体の活動状況が視野に入り確認・把握できる体制にあった。先任指令官の近くに米軍の連絡将校の席が設けられており、必要に応じて勤務することがあった。階級は少佐または大尉であった。

2.米軍将校と肩を並べて職務を果たす 

 夜間勤務で、小隊長不在時には時折、先任指令官席に着くことがあった。その時は、「日本自衛隊を代表してこの席に座っている」と思うと同時に、米軍連絡将校も「米空軍を代表している」と認識したものであった。

 英語能力は、当時の日本人と同じ傾向で、読むこと、書くことは十分 できたが、話すことは流暢とはいかなかった。しかし、要撃管制官としての職務を遂行するにあたっては要撃管制用語は共通で何の支障もなかった。若かったせいか度胸でぶち当たり会話していたようだ。厚木基地の海兵隊の移動警戒部隊へ派遣されて連絡幹部の任務を一人でこなしたこともあった。

 お隣同士で勤務しているとお互いに通じ合い、特異な事象がない夜間はいろいろと話をすることがあった。米空軍のことからアメリカ合衆国の話、海外勤務のこと、さては家族のことなどであった。米軍将校も白人、黒人ありで、人種差別などについても忌憚なく聞いたことがあった。

 自衛隊は軍隊でないといっても、国際的には両者相向かえば、軍務に就く軍人同士であるだけに、打ち解けるのも早く、お互いを理解し、米国軍人気質もあって話も弾み、厳しい勤務に隠れた楽しさがあった。          

    英語の通じないところは、手振りとメモ用紙に書いて会話することもあったがお互いの言わんとすることは理解することができた。ここで経験したことは、人間は人種、国柄、言語、生まれ育ちが異なっても、相対していけば話が通じ、理解し合えるようになるということであった。

 当時、わが方は、息抜きにお茶か水を飲む程度であったが、彼らは今風のポットを持参し、コ-ヒー一杯どうぞとお裾分けしてくれた。昭和30年代の後半でまだまだ香りのよいコ-ヒーなど飲めない時代で日本が発展途上にあった時代であった。

3.目を見張る海外派遣軍人対する処遇

 当時、米空軍の海外に勤務している軍人に対する処遇、わけても手厚い厚生施策についてはびっくりした。本国から毎月最新の映画が届き一人で見るより二人や数人で観た方が楽しいからとよく誘われた。それを観てから数か月後に国内の映画館で封切になったりした。日本語の字幕はないが、ともに楽しんだものであった。

 米軍のかまぼこ宿舎に行くと、日本人の調理人とメイドがおり後顧の憂いなく勤務できる体制にあった。第一線のサイトに一人の軍人といえども 国家が送り出した軍人を完全にサポ-トしている国家のありようを見て大国の国力と軍人に対する処遇の一端を垣間見ることがあった。隊舎に帰ると、当時、出はじめたインスタントラ-メンをすする時代であった。

4.米国のドル防衛策の影響

  第44警戒群に着任した当時は、米軍の主催するはパ-ティに招かれることが多かったが、アメリカは国際収支の赤字問題に対処するため、ドル防衛策を昭和35年(1960年)に打ち出し、38年(1963年)にこれをさらに強化した。

 この影響はすさまじく、昭和38年を境に、逆転して自衛隊の主催するパ-テイに招くようになった。国際経済の冷徹な一面を経験することになった。自衛官の立場から国家経済と軍事の関係について目を向けるきっかけとなった。日本の経済力・国力が上り坂を歩み始めた時代であった。