昭和の航空自衛隊の思い出(88) この平和は俺たちが守っている

1.この平和は俺たちが守っているとの実感

 かっての私の自衛官人生で、最も「この平和は俺たちが守っている」と強烈に実感したのは、初級幹部として、要撃管制官として、峯岡山分とん基地・第44警戒群に勤務し、24時間の航空警戒監視任務の交代制勤務(シフト勤務)についたときであった。

 自衛官の多くは、厳しい困難な実任務に就くと訓練とは全く異なった使命感・任務感を持つものである。その任務遂行の態様は様々で、24時間の警戒監視であり、スクランブル待機であり、災害出動であり、海外の国際貢献などであろう。この「この平和は俺たちが守っている」と強烈に実感することの積み重ねが、困難な任務遂行の原動力となってくるものだ。

 これは自衛官だけはなく海上保安官、警察官、消防官など同じであろう。

 峯岡山分屯基地では、昭和36年~41年にかけて、5年間、要撃管制官及び群本部運用班長として勤務した。 

 千葉県の中で一番高い愛宕山(408m)に位置する首都防衛の第一線にあるレ-ダ-基地である。要撃管制官として24時間の航空警戒監視の任務に就いていた。交代制勤務なので曜日に関係なく、朝から夕方までの日勤・夕方から真夜中までの勤務、真夜中から朝までの勤務と休みを繰り返していた。

 勤務交代時に、レ-ダ-山頂から眺めた絶景は今もまぶたに浮かぶ。特に、深夜の天空を仰げは満点の星が散らばり、眼下には平穏なまちの明りが散らばっていた。はるか洋上には漁火が点々とし、平和な日本の町並みが眼下に展開していた。若く意気に燃えていた私には「この平和は俺たちがを守っている」と実任務に就く緊張感と充実感があった。一睡もしない、仮眠もない厳しいシフト勤務だったが、寸暇を惜しんで日夜技量の向上に励んだ。

 厳しい勤務を通して空理空論や理屈ではなく、心の底から日本の空を守っている一員だと実感し、幹部自衛官としての自覚と使命感が一層強くなった。

2.日本の空を守った要撃管制官たちの自負

 昭和36年~41年にかけて、監視管制隊で指導を受けたり、一緒のクル-で勤務についたり、ともに苦労を分かち合った要撃管制官は、それぞれが個性豊かな人物で印象深く忘れ難い人達である。首都はもとより日本の空を守ったという自負を胸に抱いていた。

 第44警戒群在任間は様々な上官、先輩から指導と薫陶を受けて成長していった。24時間勤務にわが身をおいて、厳しい任務を遂行した自信がその後の自衛官人生に役立ってきた。

 私がお世話になった先輩、同僚は、半世紀前のことであるが記憶の範囲で記すことにする。

 群司令は宮嶋1佐、上原恵次1佐、副司令は髙橋淳2佐、柴田紀元2佐であった。監視管制隊長は、小野3佐、勝屋太郎3佐(元航空幕僚副長), 松田鉄之助3佐、要撃管制幹部は 屋代松道(外3)、月成令二郎、蟹江次郎(外5)、古谷道彦(外11)、森田修(外11)、古関三七生(外16)、小島千秋(外16)、谷口修(外16)斎藤義明(外16)、石井浩一(外18)、佐々木英明(外18)、服部忠衛(外18)、塚田隆志(外18)、古井徳松(外21)、南部宏英(外21)、高橋昭(外21)、藤川一義(外21)、後則之(外21)、小田良吉(外21)、山下民夫(防3)、松永正幹(防3)、中島啓光(防3)、薄井守(防3) 間祐一(防5)、土光正純(防5)、松澤貞雄(防5)、住谷翰廣(防5)、谷口政隆(防6)、藤原忠晴(防6), 中井極(防6), 山岡靖義(外28)、渡邊保夫(防7)、渾川昇(内26)の各氏であった。

 当時、錚々たる人材がそろい、後年、将官や主要な警戒管制部隊の指揮官へ栄進し、各分野で活躍された。

 私の23期部内の要撃管制幹部は、猿渡久雄(内23)、井ノ口茂人(内23)、中村克己(内23)、濵田喜己(内23)であったが、同時期に所属し、初級の運用資格を取得した後、私を除いて全員が他のサイトへ転任していった。

  パイロット・コントロ-ラ-トして、パイロットの小楠俊彦(外11)、影山利通(外11)、西嶋宏治(外13)、千々和英憲(防3)の各氏が配置され、いろいろと教わった。

 したがって、私にとっては防3期以上は先輩期であり、多くの諸兄にお世話になった。峯岡山在勤間において先輩諸兄からは、懇切丁寧に適切な指導を受け一人前の要撃管制官に育ててもらったと感謝しきれないないくらいである。いい思い出だけが残っている勤務地であった。

 

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 《 2尉になりたての28歳の頃 昭和36年9月第44監視管制隊に配置され、39年6月群本部運用班長に指定された。41年5月中部警戒管制団司部副官に指定されるまでの5年間、峯岡山で勤務した。》