浜ちゃん日記 どのように葬送するか

1.旅立ちの葬送

    母が彼岸へ旅立った。ある程度予期された突然の危篤状態、お見舞い、看取りから始まって、息を引き取ってからの3日間は葬送に伴う一連の事で慌ただしく大変であった。娘である家内はもとより 、娘婿の私も同様であった。

    遺体の病院から自宅への移送、安置、親族間の打ち合わせ、葬儀社との葬儀段取りの打ち合わせ、関係の親類縁者への連絡と各葬送行事の出席の有無の確認、隣保班へのお願い事項、喪主をはじめとして 故人の子達は通夜、葬儀告別式、火葬、3日目法要と休む暇もない日々であった。葬送の日取りは、暦を見ながら一日として空白がなく、すんなりと決まっていった。

    98歳という最高齢者と雖も、親族の全員がそれなりの心の準備はできていた。

     医師からは医療の施しようがなく、ただただ見守るしかなく、静かに時の過ぎるのを待つだけという状態であったが、肉親の情として今後の相談や打ち合わせをすること自体がはばかれるものである。

    そのことが今後大事なことだと皆わかっていても切り出せないでいるのが一般世間の姿であろう。

 

2. 親族における歳の功

 昔は一族の中に長老がいて色々と取り仕切り、知恵を借りることができたものである。戦後、家族の核家族化が進みその伝授が難しくなってきた。

    何事もそうであるが、親族関係においては、全体の流れ・動きの中で、今後の対応を相談するきっかけは、事態の推移を若干距離を置いて高所から眺められる年長者の助言によって動き出すものである。   

    そのタイミングは微妙で難しいものであるが、これがないと動き出さないことがある。ちよっとした小さな出口を作ると、呼び水となって、自然に水が流れるごとく事は進んでいくものである。

 終に息を引ってからの対応は敏速的確に処理された。

    こうしたことは昔から言われてきた「歳の功 」である。 人生を多く歩んだ者は、親、配偶者、子、兄弟姉妹、親戚縁者などの葬送の経験、あるいは、隣保の葬送のお手伝いなど数多くの葬送行事に携わった豊富な社会的経験を持っているものである。   

    人の一生は、生あれば死がある。喜びがあれば悲しみがあり、喜怒哀楽の繰り返しである。送り送られる立場の繰り返しである。皆これを学んで行くのである。これが人生ではなかろうか。

    人は歳相応に人生の何たるか酸いも甘いも数多く経験し、肉親の死に立ち会い、葬送に関与してくる。

    このたびも経験を積んでいる者達が話し合いながら知恵を出し合い、決めるべきことをすみかに決めた。

    本家、分家と言ったしきたり、先祖代々の墓、仏壇等の祭事の継承などは時代とともに変わりつつある。どんなに家族制度、核家族化が進み変わっても、人の死はいささかも変化がないものだ。  

     人は誰であれ、いつの日か自分の家族の死と葬送に向き合わなければならない時が来る。自分は関わりないと思っていても必ずくるものである。

     人は人生経験の中に、このことを段階的に学び、経験していくが、今の時代はその機会が少なくなつてきているのではなかろうか。

 

3.  葬儀社の利用

    私の子供の頃は、全て葬送に関しては、親族と集落が中心になってことが運んだものであった。

     戦後もしばらくはその慣習が続いていたが、今や時代は大きく変わった。その土地によってかなり独特の葬送の風習が残っているところがあるが、世間一般の葬送の形式などは大きく変容してきた。宗派によってもかなり異なっている。

    しかし、そこに共通するものは、故人を敬い、慈しみ、お弔いする心は古今東西いささかも変わりない。

    現代は、葬儀自体は葬儀専門のブロ等にお任せするのが主流であるように見受ける。葬送の一連の行事は集中してやってくるものだ。親族の心労を軽減するためにも葬儀社にお任せすることも止むを得ないことではなかろうか。

    こうした時代背景の中で、親族の思いをどれだけ実現して行くかが焦点となる。これが家族葬と言ったものに繋がっているように見える。  

    実際にその場に身を置くと、葬儀社の役割や存在の有り難たさを知るものである。全て喪主の要望は叶えられた。すばらしい。

    若い頃、長老の指示で、届け・手続き・手配で走り回ったことが思い出された。

    こうしたことで、葬儀は滞りなく順調に進行し終了した。ありがたいことである。

 

4.病気と闘う姿に心が痛む

    この度は天寿を全うしての98歳の旅立ちであった。幼子を亡くしたり、働き盛りが突然この世を去るのとは異なるが、多くの親族自身がそれなりの歳を重ねており、体力的にも実に大変厳しい毎日を過ごしたように感じた。

    誤嚥性の肺炎で、しばしの間あえぐような母の姿を見るのが辛く心を痛めたものである。 亡くなる前日の夕刻、家内の呼びかけに閉じていた両眼を開きしばらくはじっと見た後、目を閉じたままとなつた。

    かって、母は「十分生きた。いつお迎えがきてもよい」と話していたが、ここまで来ると出来れば百歳まではと願っていた。

    その願望は叶わなかったが、静かに天寿を全うして大往生、久遠に旅立ちできたことにほっとした。皆肉親は同じ思いであったように思う。

 

5.わが身のことを考えておく時代

     義母の葬送を通じて、わが身を振り返り、考えてみれば79歳となっていることに思いを馳せた。

    昔と違い、今の時代は、自分がしっかりしているうちに、しかるべく準備をしておく時代になっていることを再認識した。

    緊急時の場合の連絡すべきところ、自分の希望などを常日頃から話しておいたり、書面にしておくことは 大事なことであることを感じた。亡くなった元銀行員の次兄は残された家族が困らないように生前に必要なリストを作り残していった。

    ましてや、財産のある人は財産分与について、書面で残してやる必要があろう。数年前、公証役場で知人の立会人となり署名したこともある。

    そこまではいかなくても、 ある程度の歳になれば、必要事項をメモして残すことはしておいた方が良い時代になったと思うのは独りよがりな考えであろうか。

    身辺の整理は、「縁起でもない」といった云々ではなくなってきたように感じている。わが身のことを考えておく年代であり、時代であるようだ。

 母の葬送に過ごした数日間に強く感じたことを記してみた。