元自衛官の時想( 152)  中日新聞連載「戦地を語る」の老生のインタ―ビュ―記事

 元自衛官として、中日新聞の取材を受けた。聞き手は岸記者、写真は山田さんである。戦後77年を迎えて「戦地を語る」の連載記事❸となった。 

 老生に取材の申し出があったので、快く承諾し、元自衛官の立場から自衛官生活、イラクのクウェ-ト侵攻の湾岸戦争やロシアのウクライナの侵略を中心に戦争と平和、国家の独立・自由・民主主義、国防などを語ったものである。

 本日、社会面トップ記事として掲載された。多少でわが国の防衛任務に精励している自衛官や家族,OBの思いを新聞記事を通じて届けることができたように思います。

 今朝は、早速OB、知人から「素晴らしい記事だ」と電話をいただいた。

❶ 中日新聞 令和4年8月14日掲載  インタ―ビュ―記事

    一九九一年の頃だったと思う。同じ航空自衛隊員になった次男から話があった。「お父さん、海外に行くことが決まりました」。自衛隊の創設以来、初めての海外派遣要員に選ばれたという。中東で起きた湾岸戦争の周辺で、避難民や物資を輸送する任務だった。

 私は退官しており、事前の相談はなかった。「何で行くんだ」と聞いたら、当時二十代だった息子は「自ら志願した」と話す。現地の様子は分からない。私も元自衛官として覚悟は決めていたが、心配でたまらなかった。

 息子の赴任先は入間基地(埼玉県)だが、「とにかく派遣前に休暇を取って帰ってこい」と声をかけた。休暇中、近くの賀久留(かくる)神社を家族で参拝し、無事を願った。渡航直前に航空自衛隊の輸送機派遣は見送られ、湾岸での任務は停戦後、海上自衛隊によるペルシャ湾での機雷除去になった。派遣は幻となったが、自衛官だって人の親であり、人の子なんだと実感し、平和を強く意識した。

 私自身は戦後、航空自衛隊が発足した翌年の一九五五(昭和三十)年、全国で二百人のパイロット候補「第一期操縦学生」に選ばれ、入隊した。ただ、適性がなかった。着陸時に一、二秒操作がずれ、機体がふらふらする。裁判のような資格審査委員会に諮られ、パイロットの道は断念した。

 その後、機体整備の道を志して浜松基地に赴任。部内幹部候補生の選抜試験に合格し、「要撃管制」に携わった。日本周辺の上空を監視し、接近してくる飛行隊があれば、戦闘機をレーダーで誘導した。上級指揮官らを養成する「指揮幕僚課程」に受かり、人事幕僚として、最後は三万五千人(当時)の自衛官の配置計画を立てていた。

 平和の維持のためには、何事もないのが理想だ。しかし、現実にはロシアのウクライナ侵攻のような衝撃的なことが起きる。日本を安全で、平和に民主主義を保ったまま守り抜くには、攻撃を受けないよう抑止のための力は備えておくべきだ。他国に攻め込まないというのは論ずるまでもない。

 他国と同盟を結ぶことも重要。日米同盟は、互いの協力がなければ成り立たない。そのためにも自衛隊国際貢献は必要だが、平和維持に貢献した自衛官がいても多くの国民は知らない。自衛官生活を通して、国民の精神的な支援があればなぁ、と何度も思った。

 日本は戦後、戦争をしないために民主主義や三権分立の国家制度を定着させてきた。戦争への参加を国民は絶対に許さないし、望みもしないだろう。平和を一番希求しているのは自衛官とOB、その家族だと思う。有事に真っ先に危険な仕事に身を投じる立場であり、戦いを好むわけがない。 (聞き手・岸友里)

 

❷ 中日新聞編集デスクの「編集日誌」 令和4年8月14日