先人たちは、簡潔明瞭にして含蓄のある、味わい深い、しかもウエットと人情の機微に富んだ諸々の名言、格言、人生訓、心にしみる詩や言葉など人生の道しるべとるものを残している。
今回取り上げた「つもりちがい十ヵ条」も色々なところでよく見かける。ネットでは額装したものまで手に入れることができるようだ。
この十ヵ条は、長野県飯田市にある元善光寺という寺の住職が書いたものと言われている。元善光寺は、推古天皇10年(602年)からある古いお寺で、この地の住人が大阪で見つけて持ち帰った善光寺如来の本尊が、勅令によって長野県長野市の善光寺に遷座されたため、この寺は元善光寺と呼ばれているとのこと。元善光寺には木彫りの本尊が残されているので、善光寺と元善光寺の両方を参らないと「片参り」と言われるほど由緒あるお寺だといわれている。そうしたことから、かってシニアクラブの旅行で善光寺と元善光寺の両方にお詣りしたことがある。
つもりちがい十ヶ条
1 高いつもりで低いのが 教養
2 低いつもりで高いのが 気位
3 深いつもりで浅いのが 知恵
4 浅いつもりで深いのが 欲望
5 厚いつもりで薄いのが 人情
6 薄いつもりで厚いのが 面皮
7 強いつもりで弱いのが 根性
8 弱いつもりで強いのが 自我
9 多いつもりで少ないのが 分別
10 少ないつもりで多いのが 無駄
1 「 高いつもりで低いのが 教養」
❶ 教養
教養とは何か、私の所蔵している昭和30年(1955年)5月第1版の広辞苑で「教養」を引いてみたがあまりにも古いので、ネットで最新版を確認した。広辞苑と日本大辞典の解説を転載してみた。
①きょう‐よう【教養】 広辞苑 ページ 5225 での【教養】単語。 出典
②教養 (きょうよう) 日本大百科 ページ 16840 での【教養】単語。出典
人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいわれわれの精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である。教養はとくに専門的、職業的知識を意識した場合、「一般教養」と表現されることがある。教養ということばの原語である英語やフランス語のcultureがラテン語のcultura(耕作)からきていることからわかるように、土地を耕して作物を育てる意味だったものを「心の耕作」に転義させて、人間の精神を耕すことが教養であると解されている。その「心の耕作」cultura animiという表現を初めて用いたのは古代ローマのキケロである。 心を耕して豊かにするための素材は、時代や社会によって異なって展開されてきたが、ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマ的な教養の概念が受け継がれてきている。ギリシアでは精神と肉体が調和した全人的教養人が理想とされ、そのために学ぶべき知識が学科目として提示され、それがやがて自由七科へと発展、継承されていった。古代の教養の概念はルネサンス人文主義のなかによみがえり、さらに18世紀後半にドイツの新人文主義運動のなかで、古典文化の精神を学び直し、それを新たに創造、展開し直すという形でとらえ直された。しかし、教養は古典的、学問的に偏り、それ自身が目的となるきらいがあるため、科学・技術が急速に発達し、社会生活も大幅に変化した現代では、教養の新しい内容が求められている。 <諏訪内敬司>
❷ 「高いつもりで低いのが 教養」
「教養」について、両辞典とも共通するものは、「人間の心を豊かにする努力」、「円満な人格・知性を養い育てる努力と成果」てあり、そのため「人間の心・精神を耕すこと」とする考え方・解釈であると理解した。
「教養」があるかないかを、どちらかと言うと専門的知識があるかどうか、高等教育を受けたかどうかで計る見方、考え方をしているなどを見かけるが、どうであろうか。
私達は毎日の社会生活のなかで、行動、言動、立ち振る舞い、ものの見方・考え方など含めた全人格・人柄から「教養」があるかどうか、他人から評価されたりするものである。
物心ついた時から人生を終えるまで、コツコツと自分で心を豊かに耕す努力をしたかどうかで、「教養」があるかないか、高いか低いかを他から評価されることになる。
つまるところ、「教養」の高低を推し量る物差しは、他人から尊敬される人物であるかどうかに辿り着くように思われるがどうであろうか。
人間にとって、終生教養を高めることは一番の修練目標でではなかろうか。