わが自治会活動の軌跡(20) わが神原町の母体となった神原集落の様子、成り立ちや誕生前後が明らかになった

 平成17年(2005年)4月、地域の神原町自治会長に就任して以来、毎月5日と20日の2回、「神原町自治会ニュース」を編集発行した。歳月が過ぎるのは早いもので15年が経った。
 わが町に「自治会ニュース」が創設発行されるようになってから、現在に至るも継続されて情報連絡紙として大きな役割を果たしている。
 「神原町自治会ニュース」を通じて、地域社会に生起する諸問題、自治会活動及び運営や地域の話題や町内で黙々と献身的に活躍する人々などを中心に、どのような問題に直面して、どのように対処したかを回顧してみたい。
 自治会・町内会の運営と活動は、時代、地域によって状況は様々であるが、共通するものがあるのではなかろうか。そうした視点からすると現在及び将来において、自治会・町内会の会長、副会長、会計の三役などの役員として活動される方々に参考になる点もあるのではなかろうかと思うものである。時代の進展とともに自分たちの住む町の自治会・町内会は常に新しい課題に直面しながら前進していくものであるからです。

 

❶     神原町の成り立ち  その4  ル-ツを探る 

 神原町の成り立ちも、回を重ねるにつらで明らかになってきました。現役の自治会長の立場で、自治会長を経験された長老を訪問してお話を拝聴し、当時の資料などの収集に努めました。

〇 わが町の長老 池谷喜義さんと井嶋隆司さんの資料提供がわが町の成り立ちのまとめに大きく役立った

   その中でも最も印象に残る方は、すでに鬼籍に入られた池谷喜義さんと井嶋隆司さんでした。大正~昭和23年神原集落結成前までの記録は、主として池谷喜義さんの資料及び井嶋隆司さんの資料、聞き取りを基にして整理しました。
 池谷喜義さんは若いころから当時の社会全般、町内のことを克明に記録し、昔の神ヶ谷の職業・屋号など多くの資料を提供されていました。
   井嶋隆司さんは、若いころから集落及び自治会の要職を務めるほか「ふるさと神久呂」の編集副委員長として活躍されました。お二方ともわが町の生き字引的存在でありました。何と言っても、お二方とも、毎日のことを克明に記録されるという性格であられたように思います。したがって、高齢にもかかわらず記憶力抜群であり、敬服したものでした。

 お二人の力添えがなければ、神原町の誕生前後のことは、誰も知ることができず、伝承するべもなかったのではないかと思われます。奇しくも外から居住してきて、自治会長に就任した私を長老のお二方に引き合わせる天の配慮に感謝するものです。

 「わが神原町の歩み」は、「わが自治会活動の軌跡」が終わった後に掲載する予定です。 

○ 若い時代から故郷の歴史・ル-ツに興味を持ち資料を収集してきた

 私は、郷里鳥取県東伯郡湯梨浜町(旧羽合町)宇野で生まれ、少年時代を日本海の波音を聞きながら過ごしました。高校を卒業すると自衛隊に入隊し、35年余にわたり国家防衛の任についたが、この間、どこの任地に行っても、故郷の歴史、郷土史は、宇野に居住している姉夫婦を通じて入手し愛読してきました。自分の生まれた土地や先祖はどうであったかについて、いつの時代も資料収集し興味をもって学んできました。

 その根底には、羽合中学時代の恩師絹川初春先生と宇野小学校の教師をされた谷田亀寿先生の影響があったのではないかと思っています。敬愛する絹川先生は、「羽合町史」の編纂者のお一人でした。谷田先生は兄姉たちが教わった恩師で「宇野村郷土史」を編纂された方です。当然、現住地の浜松については「浜松市史」、神久呂地区については「ふるさと神久呂」を入手して所蔵しています。

 また、わが家のルーツ、とりわけ祖父が集落の中で最後までチョンマゲでいたこと、戦国時代の羽衣石城主南條氏と同じ「南條」という屋号であったことなどに興味を持ち、在隊間から諸資料の収集に努めてきました。

 こうしたなかで、自衛隊退官後、家内のふるさと浜松を終の棲家として神原町に居住することになりました。皆さんの推挙により地域の自治会長に就任したのを機会に、神原町が誕生して50周年を迎えるにあたって、わが町のル-ツを探りたいと思いました。 

 私は郷土史家でもなく、歴史の研究者でもありませんでしたが、自治会長という立場に立ってみて、わが町のルーツ、成り立ちを知りたいとの思いが一層強くなりました。

 個人ではできないでしょうが、歴代の先輩である自治会長や長老の皆さんを訪ねて、昔話をお聞きすることができる立場にありました。

 こうして「古くて新しい町」として、住みよい明るい町の誕生の歩み、ル-ツを探ることを思い立ったわけです。

 また、期せずして、「神原町まちづくり構想」の策定にあたり、町民から提案のあった「わが神原町の歩み」の編纂発行につなげることができました。まさに「時」と「運」に恵まれたのではないかと思います。

2014-02-09     自治会活動(15)   なぜわが町の歴史か      参照してください。

 

その3の要約  

神原町の母体となった集落内の隣保名と戸数

 昭和26年ごろの記録では、〔原山隣保〕7戸〔西原隣保〕8戸〔稲荷隣保〕6戸〔雨溜隣保〕7戸〔奥一隣保〕10戸〔奥ニ隣保〕10戸〔北神隣保〕8戸であり、7個の隣保班で49戸でした。

。各隣保の区域は、家の配置から大まかに区分できます。

◇隣保名と当時の土地名から、現在のような数字班名では出てこない、当時の人々の大地に根ざした生活環境、自然観、神仏に係わる信仰心や生活に密着した土地愛、愛郷心のようなものが感じられます。

◇ 歴代の集落の長と戸数の変遷  (以下敬称省略)
△神原集落の結成から神原町誕生までの集落の長と戸数をまとめてみますと下表のとおりです。
年度 (代)・集落長 氏名 (隣保名)    戸数
発足時                49戸
昭和23年度 初代  池谷喜太郎   奥ニ    51戸
昭和24年度 2代  池谷 市作   北神            53戸
昭和25年度 3代    井島 惣平         奥一           56戸
昭和26年度 4代    野寄 力一          原山          56戸
昭和27年度 5代    池谷 偆一         奥ニ            56戸
昭和28年度 6代  記録なし         56戸
昭和29年度 7代  井島 静雄   奥一    56戸

そのの4 » ル-ツを探る
◇ どのように役員を選んだのか?    
△昭和20年8月、敗戦により新しい国づくりが始まって以来、全国どこでも民主制の選挙が定着してきました。学校でも、先生から指名される級長から児童生徒自らが選挙でクラス・生徒会役員を選ぶ時代に変わりました。

△神原集落長など役員を選ぶのも、すべて投票によって決めたことが記録されています。昭和24年度の集落役員選挙は、2月12日に行われ、第2代集落長に井島新太郎、評議員・長谷松一、部農会長・野寄弘、副部農会長・原田宇吉、部農会供出掛長・池谷武、部農会作報・池谷久二が当選しました。3月29日、当選した次年度集落長の井島新太郎殿の病気申出により急遽協議し年度末の31日総会を開き、選挙結果第2代集落長に池谷市作が当選したことが生々しく記されています。
◇ どんな役員を選挙できめたのか ?   
△選挙で選んだ役員の役柄を見ますと、集落長、副集落長、部農会長、副部農会長、部農会供出掛長、部農会作報、地力調査員、洞雲寺世話人、屋根修理世話人、農地委員、補導員のほか、村議予選、農業委員選挙予選、農協理事予選が行われています。
自治組織運営の時代背景を探る !
△上記の役員のほかに隣保長7名、小・中学校PTA男子、女子各1名、各箇所の道路委員などの役を合せると30近くの役目を56戸で分担し合っていたことになります。

△当時の神原地区における民主的な自治制度が成り立った背景には、専業農家が主力で農業を主体とした生活であったこと、日常生活と密着した農協、お寺との関りなどの役柄が多かったこと、選挙で皆から選ばれたら役目を引き受けることは当然の責務であるとの強い義務感、素朴で堅固な義理人情、新しいまちづくりへの連帯感、緊密な隣保同士の付き合いなどがあったことを物語っています。
神原町の今と昔とのつながり  
△昨今の自治会や諸団体の活動に至るまでの50年間の年月に思いをはせると、私たちの神原町は、昔からの古いものと新しいものが調和していることに気づきます。部農会活動一つとっても戦後からの長い歴史と伝統があることを知ることができます。

△昭和29年56戸が母体となって、昭和30年4月神原町が誕生することになります。次回は、神原町誕生の前後を中心に探ってまいりましょう。

 
会長の一言

△この一年間ご支援ご協力ありがとうございました。自治会ニュ-スも20号まで発行どのようにお読みいただけたでしょうか。

 

 神原町自治会ニュ-ス   No20   平成18年3月20日

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