自衛隊家族会(9) 自衛隊海外派遣実任務に従事する子供を送り出す親の心情

 先日、浜松自衛隊家族会から「浜松自衛隊家族会ニュ-ス」が届けられた。特に注目した記事は、浜松自衛隊家族会副会長兼事務局長の内山善延氏の「中東派遣に横須賀基地を出港する海上自衛隊護衛艦「たかなみ」に乗艦する息子を見送る」であった。

   私もまた元自衛官であったこと及び自衛官の息子を持った経験から同感するものがあった。そこには、自衛官の子どもを厳しい任地に送り出す親の心情がよく表れた内容で吸い込まれるように拝読しました。

    かって、平成3年(1991年)の初めの頃、中東の湾岸戦争終結に伴い、自衛隊の歴史始まって以来、初めて海外へ自衛隊部隊を実任務で派遣するかいなかの状況下にあった。

    当時、私は平成2年(1990年)4月に定年退官し、浜松に居を構え、自動車保険料率算定会調査事務所(現保険料率算出機構)に勤務していた。航空自衛隊小牧基地に所在する第1輸送航空隊にも派遣下令が予想され、派遣部隊要員(管理要員)候補の一員に次男も志願し選考指名された。所定の研修・訓練、予防接種などを完了していつでも準備命令があれば動ける待機状況にあった。国家・国民の負託に応えるために、あらゆる可能性に対処きるよう準備しておくのは当然であった。

     自衛隊始まって以来の海外派遣要員に選ばれたからには、航空自衛隊を代表する一員であることから名誉なことであるからしっかりやるように激励した。いよいよ派遣下令が近づいたある日、短い休暇で息子が浜松に帰省した。その折、地域の名勝、神久留神社において、私共両親と祖父母を交えて、「無事の任務完遂と帰還」をお祓いしていただいた。まさに武運を祈る思いであった。

    神久留神社は、昔から「武運の神様」として知られたところで、宮司も戦後初めての自衛官派遣の祝詞奏上とあって、祝詞の内容作成にかなり苦心されたようであった。

     最終的には、海上自衛隊掃海部隊の派遣となり、航空自衛隊の部隊派遣はなかった。「まぼろし航空自衛隊海外派遣隊員」となった。

    今回の内山さんの記事を読みながら、30年前の親としての思い出が蘇ってきた。私は航空自衛官として35年余の勤務を無事に終えたばかりであり、国内外の情勢、派遣任務の重要性、未知の海外での実任務については予想できた。妻は母親として息子のことが心配であった。自衛官の厳しく過酷な任務には家族の支えが一番である。その上に国民の理解と支持こそが使命感をもって立派に任務を完遂する根源であると確信していた。

 いみじくも、今回、護衛艦『たかなみ』の出国に当たり、自衛隊の最高指揮官たる安倍晋三内閣総理大臣は、訓示の中で、「『たかなみ』の乗員諸官。この重要な任務に、限られた時間でしっかりと準備を整え、士気高く臨んでくれている諸官一人一人に、敬意と感謝を表したいと思います。」

「御家族、関係者の皆様には、日頃『たかなみ』の乗員諸官を支えていただき、本当に有難うございます。心配や不安もある中、伴侶であり、お子さんであり、お父さんである、大切な方々を、このように任務に送り出していただき、心から感謝を申し上げたいと思います。」

「『たかなみ』の乗員諸官。諸官が遠く中東の洋上にあっても、私と日本国民は、常に諸官と共にあります。諸官におかれては、その誇りと自信を胸に、任務に精励してください。」と述べられた。

 ひるがえって、自衛隊初の海外派遣任務となった平成3年4~11 月(1991年)のペルシャ湾掃海艇派遣(1991年)が思い出される。

 当時の状況は、ペルシャ湾掃海艇派遣の意義と教訓 ―掃海部隊の歴史と海上防衛力整備の経緯からの考察― 戦史研究センター安全保障政策史研究室 相澤輝昭氏の論文(NIDS NEWS 2014 年 12 月号 )に掲載されており、その一部を紹介する。

 当時の話題で次の二つは、いまだ強く記憶に強烈に残っている。 

 「湾岸危機、湾岸戦争に際しての我が国の対応には人的貢献がなく、計130億ドルの資金協力を行ったにもかかわらず、クウェート解放後、同国政府が『ワシントンポスト』に掲載した関係各国に対する感謝広告に我が国の国旗がなかった。」 

 任務を終えての帰路、「付近を航行するフェリーには「御苦労さまでした」と書かれた垂れ幕が大きく掲げられていたと伝えられているが、これは賛否両論の中での出発時と比較して、国民意識の大きな変化を示すエピソードの一つである。」

 海上自衛隊派遣部隊の任務完遂と無事の帰還を祈るものである。 

 

 1 「浜松自衛隊家族会ニュ-ス」浜松自衛隊家族会副会長兼事務局長の内山善延氏の「中東派遣に横須賀基地を出港する海上自衛隊護衛艦「たかなみ」に乗艦する息子を見送る」

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2「護衛艦『たかなみ』の出国に当たり、自衛隊の最高指揮官たる安倍晋三内閣総理大臣訓示     首相官邸ホ-ムぺ-ジ出典

 令和2年2月2日、安倍総理は、海上自衛隊横須賀地区で派遣情報収集活動水上部隊出国行事等に出席しました。
 総理は、儀じょう隊による栄誉礼及び儀じょうに続き、護衛艦「たかなみ」を艦内視察し、その後、出国行事で訓示を行いました。
 総理は、訓示の中で次のように述べました。
護衛艦『たかなみ』の出国に当たり、自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣として一言申し上げます。
 本日、稲葉司令、新原艦長を始めとする、諸官208名の、士気旺盛な姿に接し、大変頼もしく感じました。また、諸官を直接激励することができ、大変嬉(うれ)しく思います。
 去る1月11日の夕方。私を乗せた政府専用機は、サウジアラビアに向かう途中、夕焼けに染まる北アラビア海オマーン湾の、正に上空にありました。諸官がこれから赴く海域です。これらの海域は、年間数千隻の日本関係船舶が航行し、我が国で消費する原油の約9割が通過します。そこは日本国民の生活を支える大動脈・命綱と言える海域です。これら日本関係船舶の安全を確保することは、政府の重要な責務であり、そのために必要な情報収集を担う諸官の任務は、国民の生活に直結する、極めて大きな意義を有するものです。諸官の任務の遂行に当たっては、関係国の理解と、この地域の緊張緩和と情勢の安定化のための努力が必要なことは言うまでもありません。
 我が国は、米国と同盟関係にあり、同時にイランを含む中東各国と長年良好な関係を築いてきています。私自身、先般中東各国を訪問し、自衛隊の派遣を完全に支持する、協力支援を惜しまない、との力強いサポートを得ました。また、イランのローハニ大統領に直接説明し、我が国の取組の意図について理解を得ました。今後も、こうした日本ならではの外交努力を尽くしてまいります。
 『たかなみ』の乗員諸官。この重要な任務に、限られた時間でしっかりと準備を整え、士気高く臨んでくれている諸官一人一人に、敬意と感謝を表したいと思います。 船舶運航関係者、日本企業、そして国民が、諸官の活動と『たかなみ』のプレゼンスを大変心強く思っています。
 また、御家族、関係者の皆様には、日頃『たかなみ』の乗員諸官を支えていただき、本当に有難うございます。心配や不安もある中、伴侶であり、お子さんであり、お父さんである、大切な方々を、このように任務に送り出していただき、心から感謝を申し上げたいと思います。自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣として、『たかなみ』の乗員諸官が安心して、その任務に専念し、その任務を無事完遂できるよう、また、御家族の皆様が安心して日々を過ごしていただけるよう、政府として万全の態勢をとることをお約束いたします。
 『たかなみ』の乗員諸官。諸官が遠く中東の洋上にあっても、私と日本国民は、常に諸官と共にあります。諸官におかれては、その誇りと自信を胸に、任務に精励してください。」

3  ペルシャ湾掃海艇派遣の意義と教訓 ―掃海部隊の歴史と海上防衛力整備の経緯からの考察― 戦史研究センター安全保障政策史研究室 相澤輝昭 

    NIDS NEWS 2014 年 12 月号  出典  一部掲載
はじめに
ペルシャ湾掃海艇派遣(1991年4~11 月)は自衛隊として初めての海外での実任務であり、湾岸危機湾岸戦争に際し我が国の貢献策が資金協力にとどまったため生じた外交上のダメージ回復に大きく寄与するとともに、その後の自衛隊による国際貢献の先駆けとなった活動でもあった。その概要については派遣部隊指揮官であった落合 畯 たおさ が防衛研究所のオーラル・ヒストリーをはじめ多くの証言を残している ことなどから、一般にも広く知られている。そこで本稿では、我が国戦後史の一つの転換点となったと
も言える本派遣が、初めての任務であったにもかかわらず所期の目的を達成することができた要因と、この活動を通じて浮かび上がってきた課題が何であったのかということについて、特に派遣主体となった掃海部隊及び海上自衛隊(以下、海自)の発展に係る歴史的経緯を踏まえつつ考察を試みるものである。
派遣の背景及び経緯
 湾岸危機、湾岸戦争に際しての我が国の対応には人的貢献がなく、計130億ドルの資金協力を行ったにもかかわらず、クウェート解放後、同国政府が『ワシントンポスト』に掲載した関係各国に対する感謝広告に我が国の国旗がなかった事実は、有名なエピソードである。

 こうした中、政府・与党からも人的貢献が必要であるとする主張が出始め、特に停戦成立以降は自衛隊法(99 条(当時:現在は同法 84条の 2) 、機雷等の除去)で可能な掃海艇の派遣が有力案として浮上してきた。

 このような判断がなされた背景には、第一に国内政治上の問題として、機雷の除去は本来的に船舶航行の安全確保という人道的目的に適うものであり、自衛隊の海外派遣には抵抗感のあった当時の国民世論にも受け入れられ易いと考えられたということがある。第二に外的な要因として、海自掃海部隊が戦後一貫して航路啓開を実施してきた経緯から実力に定評があり、これに対する米海軍の期待も高く、湾岸危機に際して早い段階から掃海艇派遣について非公式の打診があったことも挙げられる。そして当時のペルシャ湾の状況について言えば、約1,200 個の機雷が北部海域に敷設され、米艦艇の触雷も生起するなど、一般船舶はもちろん展開中の多国籍軍艦艇にとっても大きな脅威となっていた一方、湾岸戦争には直接参戦しなかったドイツも掃海艇を派遣するなどして国際共同による機雷の除去が進みつつあり、時期を失すれば派遣の必要性自体が失われてしまうといった可能性も懸念されていたのであった。
 そうした中、1991 年4月16 日、防衛庁長官から準備指示が発出、4月24 日には安全保障会議閣議において本派遣が決定、「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理に関する海上自衛隊一般命令」が発令される。翌々日の 4月26 日、掃海母艦「はやせ」、掃海艇「ゆりしま」「ひこしま」「あわしま」「さくしま」、補給艦「ときわ」の 6隻で編成された派遣部隊はそれぞれ母港から慌ただしく出港していった。そして 5月27 日、派遣部隊はドバイに到着する。機雷除去は 6月5日から開始され、9月11日までの 99 日間、主としてペルシャ湾北部海域において実施された。

 この間、計 34 発の機雷を処分し、多国籍部隊が対処困難として手つかずであった海域を含む多くの港湾水路の安全を確認、ペルシャ湾における船舶航行の安全確保に多大な貢献をしたのであった。帰路は 9月23 日にドバイを出港、10 月28日夜、広島湾に帰着、翌々日の30 日、呉に入港して盛大な歓迎式典が実施される。

 この時、付近を航行するフェリーには「御苦労さまでした」と書かれた垂れ幕が大きく掲げられていたと伝えられているが、これは賛否両論の中での出発時と比較して、国民意識の大きな変化を示すエピソードの一つである。