昭和の航空自衛隊の思い出(471)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(6)(完)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
 私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
 先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
 昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
 自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
 今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
 矢田次夫元統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。
2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
  かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。
 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。
山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・海上自衛官と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。
 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出・香りにつながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。
❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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❷ 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
㉔ 出雲造船、総務課長に

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㉕ 自ら困難に立ち向かう

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㉖ 強い母に感謝する 

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㉗ 31年間の自衛隊勤務

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㉘ 深い水の流れのように

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㉙ 愛国の涙に支えられ

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㉚ 制服姿で終わり告げる

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㉛ 母のめいふくを祈って

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4 今日における読後感想
❶   当初、矢田末夫元統幕議長の「私の歩んだ道」は、一部ないしは概要を紹介する程度にと考えていたが、ほんの触りだけでは、私ごときがその回顧記を説明することは難しいことがわかった。むしろそのまま全編を紹介すべきと考えるに至ったものである。

    なぜならば、矢田先輩が自分の歩いた道を語られた動機に、山陰・日本海で育ち巣立つ若者に参考になればとの思いで残した回顧記であったからである。

    わが母校の前身である鳥取県立倉吉東中学校から自衛官の最高位たる統合幕僚会議議長(統合幕僚長)が戦後輩出したことは誇りでもある。 あるがままの矢田先輩の回顧記を6回に分けて全文を紹介することができたことに感謝している。
❷   ㉙「愛国の涙に支えられ」編に述べられているように、かって統幕議長(現統合幕僚長)を認証官にする議論が行われたことがあったが、いまだ実現していません。今年の隊友会等防衛4団体の政策提言でも提唱されている。

   自衛官最高の地位という立場は、各国では国の大小を問わず、国を守るという崇高な任務に服している軍人の最高位であることから日本と異った取り扱いを受けている。

 日本国憲法に関わらず、矢田次夫統幕議長が諸外国を訪問した折は、国際慣例に従い、各国の軍隊のトップである統合参謀本部議長、総参謀長と等しく処遇されている。それは自衛隊創創設当時も今日においても変わりないであろう。

 自衛官は、外国においては軍人として処遇され、国内においては軍人ではない自衛官であるからである。こうしたことから昭和の時代、わが国内における統幕議長の処遇は語るに恥ずかしいくらいであった。

    英国サッチャー首相が訪日された時の招宴における統幕議長夫妻に対する処遇は流石であると感銘を受けた。国家防衛の軍人の最高位に対する処遇は、これが世界の常識であるからである。

 私も50年前の昭和38年ごろに厚木米海軍基地に2等空尉で1ヶ月連絡幹部で派遣された時、勤務中は米海兵隊隊から相応の処遇を受け、夜会では米軍家族から日本国将校とてしてもてなしを受け感激したことが思いだされた。そこには国家防衛の任に当たる軍人に対する敬愛の念があることを直接経験したものであった。

 警察予備隊、保安隊、自衛隊と変わってきたが、国家防衛の重要性は誰しも認めながら、国家の軍事組織たる国防軍自衛軍など、軍隊としての位置付けが、国家の基本となる憲法に明記されていない現状にある。自衛隊違憲論さえ出てくる。

    世界どの国家においても、祖国防衛の軍の設置について憲法で明記し、軍人の位置付けが明確である。現今の自衛隊を取り巻く諸問題の全てが最終的には、自衛隊の存在が憲法に明記されていないことに帰結する。国家の基本法の整備はどうしてもやらなければならない課題ではなかろうか。
❸  ㉘「深いみずのながれのように」編は、自衛官の神髄を語るものであり、味わい深いものがある。矢田次夫元統幕議長は、日本海テレビの「故郷を語る」番組で、色紙に「深水静流」と認められている。「ふかき水、しずかに流れとそおもう、よもの山河心せずして」隊員へのはなむけの言葉、熱い願いのメッセ-ジでもあった。

 その心は、海上幕僚長の任を終えて海上自衛隊を去る離任訓示「今だに政党でも国民の一部であるが自衛隊に対する不愉快な言動をつづけているものがある。自衛隊員である諸君は右顧左べんすることなく黙々と実力を備え。いざというときの力は、静かに流れつづける深い水の流れである。浅瀬をちょろちょろ、岩にさえぎられて流れを変えたり、水藻にかかって淀むような流れではいけない。四方の山河の美しさい景色などたとえ見えなくても・・・」にあるのではなかろうか。 

   「深水静流」は、矢田次夫元統幕議長の制服44年の軍人・自衛官として歩まれた人生観・職務観でもあったのではなかろうか。

❹  矢田次夫元統幕議長が、海上幕僚長の時、わが国に駐在する外国武官団が、故郷鳥取県、わけても羽合町(現湯梨浜町)ハワイ温泉を訪れたことが記されている。わが故郷の山野と風光明媚な東郷池が目に浮かび嬉しいかぎりである。鳥取砂丘も経路に入っていたであろうが、まさに粋な計らいであった。

❺  最後に、故矢田次夫元統幕議長の安らかなるご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。