1月9日、大本山方広寺を参拝した。我が家にとっては、菩提寺天龍山洞雲寺の本山でもあるからである。久方ぶりの参拝であった。いつ訪れても深奥山といわれるごとく
静かなところである。この地に開山された理由がよく理解できた。
車を町の無料駐車場に置き、町中を歩いて、山門をくぐり一歩一歩上に登って行った。案内図に従ってゆっくりと登りながら要所要所で手を合わせた。三重塔に着いて、気が付いてことは、多くの参拝者が別の道路を利用して車で上がってきて駐車場に置いて本殿等を参拝する傾向にあることであった。時代の流れであろうか。
せっかく参拝するのにもったいないと思ったものである。「哲学の道」といわれるごとく、風景といい、山水の流れといい、幾多の苔むす石像との出会い、歩いて登り、歩いて下るところに自然に感じ取る何かがあるように思うからであった。
帰りは山門下の店で名物のたれとこんにやく、あんまきを買って帰路に就いた。夕食はおいしく賞味した。かって、しばしば、家内の両親と一緒に車で奥山半僧坊本殿参拝をしたことを思い出した。よい供養にもなったように感じた。
1.臨済宗方広寺大本山方広寺について ( 方広寺ホ-ムベ-ジ出典 )
〇 方広寺について
山号は深奥山(じんのうざん)と称し、静岡県浜松市北区引佐町奥山に所在します。
禅宗のうち、臨済宗方広寺派を構成し、その大本山として厚い信仰を集めています。
また、かつては癩(らい)患者のための病院施設を開き地域の福祉に貢献しました。
さらに、明治14年の山林大火の際に類焼に遭うも開山円明大師の御墓所と七尊菩薩堂、開山様本像、そして半僧坊真殿が焼け残ったことから、方広寺の鎮守の神である半僧坊の信仰も全国に広がっています。
〇 方広寺(ほうこうじ)の歴史と由来
1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。
無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14年(1881)の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物を擁しています。
境内各所には五百羅漢の石像が安置されております。これは拙巌(せつがん)和尚が、大蔵経(だいぞうきょう)を読んでいるとき、五百人の羅漢さまが仏法を護り、伝えるという記述を読み、御開山無文元選禅師が、かつて中国の天台山方広寺を訪れたとき、石橋(しゃっきょう)にお茶を献じられたとき羅漢さまが姿を現されたという故事にちなみ、当山に五百羅漢の石像を安置することを発願(ほつがん)されました。多数の方に寄進を願い、明和(めいわ)7年(1770)、500体の羅漢さまが安置されました。
また現在、平成の五百羅漢を皆様に御寄進いただきながら、安置を進めております。
2.写真で見る方広寺・半僧坊
《 大本山方広寺・奥山半僧坊の拝観コ-ス、見どころを受付でいただいた。このコ-スに沿って拝観してみたら要領よく、見落としなく、ポイントを押さえて回ることが出来た。とても役立った一枚の案内図(表裏)であった。 》
《 山門 》
《 三重塔 》
《 大本堂等、本堂等の拝観コースでは、ビデオの解説があり、椅子に腰掛けてじっくりと聞いてから拝観した。コンパクトによく出来たビデオであった。 》
《 大本堂横の掲示、「 天に祈り 地に祈り 半僧坊に祈る」、参拝の基本はすべて感謝と祈りであるように思う。国際・国家の安寧・平安から家族の幸せ健康と発展をお祈りした。》
《 半僧坊神殿 》
《 階段廊下で天井に十二支 》
《 涅槃の庭、横からの眺めも素晴らしい。 》
《 半僧杉、年輪を重ねた大樹をみあげて壮観の一語につきる。》
《 五百羅漢、樹齢を重ねた木立ちを見上げると、その下にいくつもの石像が安置されている。平成の五百羅漢が進められていた。 》