昭和の航空自衛隊の思い出(221) 勤務基地におけるクラブ活動

    自衛隊員の多くは、毎日の生活の中で、隊務を離れた時、基地内外で趣味・運動など多様な活動をしていた。

 勤務地・勤務体制・生活環境等に対応して、自分の限られた余暇をどのように有効に活用するかによって生活の質が変わってくるものだ。どこの基地でも各種のクラブがあって多数の隊員が自分の意志で参加し活発な活動を展開している。職場を中心としたものから全く仕事から離れた関係のものまでさまざまな形態があった。

    同一基地に割合長く勤務し結婚、自宅を建設した者は、地域のクラブ活動に参加することが多かった。

   私の場合、クラブ活動への参加は、担当業務とのつながりから誘われて参加するようになったといってよいであろう。どんなきっかけであってもクラブ活動に参加することができてよい思い出を持つことができた。

 

1.入間基地における茶道部

    昭和41年5月、中部航空警戒管制団司令部副官として入間基地に勤務した。しばらくは仕事でいっぱいであったが、十分慣れて多少ゆとりができてから、時の島田正春副司令に勧められて基地茶道部に入部した。職務柄時折休むこともあったが、部外の先生の指導を受けて一通り茶道について学ぶことになった。

 この経験は、お茶の席などで在隊間役立つことになった。

 

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《 昭和42年ごろの入間基地茶道部、先生を囲んで島田中警団副司令・野上基地業務群司令ほか部員一同 》

 

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 《 入間基地の茶道部から13年後の昭和55年、教育管理特定監察団の一員として隷下部隊を監察の折、基地の野点の茶会に呼ばれお茶を一服いただいた。》

 * Wikipediaによると「野点(のだて)とは、屋外でまたは抹茶をいれて楽しむ茶会のこと。特に茶道において戸外で茶を点てる(たてる)ことをこのように呼ぶが、茶道など日本古来の様式にしたがっている場合には一律にこのように呼ばれ、屋内での茶道では重視される細かい作法が簡略化された気安い催しの場合もある。」

 

2.春日基地におけるゴルフ部

 昭和48年7月、春日基地所在の西部航空方面隊司令部勤務においては、ゴルフを初めて始めた。牛尼敬二人事班長に誘われて、班員の井上功一君と一緒に春日基地ゴルフ部の一員となった。毎月のゴルフ大会にも参加した。腕の方はあまり上がらなかったが仲間と楽しんだ。

 後年、再び春日基地に西部航空警戒管制団司令部人事部長として着任した時は、特命で基地ゴルフ部長となった。腕の方はさっぱりであったが、月例のゴルフ大会はその道のスタッフが揃っており、苦労なく運営することができた。大いに楽しむことができた。

 ゴルフの上達は、日ごろの練磨と一打一打真剣勝負で立ち向かわないといけないことは分かっていたが、最初から楽しくかつ健康管理・気分転換 ・親睦ができればよいという考えであった。終始全くスコァを気にすることもなく、上達しなかったのは当然の結果であった。

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 《 昭和58年3月、春日基地・西部航空警戒管制団司令部勤務となり、基地ゴルフ部長を担当したころ、腕は並みであったが、部長らしく務めた。 》

 

3.府中基地における詩吟部 

 昭和54年8月府中基地に勤務してからしばらくして、管制気象団司令部人事班長の五ノ井國男さんが府中基地の詩吟部部長をしていたので、人事仲間のよしみで誘われて入部し、大堀輝昭さんたちと一緒に詩吟を勉強することになった。

 日本詩吟学院岳風会 の伊藤岳智先生の指導のもとで熱心に勉強し初段をいただいた。休日には都内で行われている詩吟の発表会に出かけ、流派に関係なく勉強の資とした。

伊藤岳智先生は非常に温厚な方で伝授も上手であった。府中基地からの転任に当たっては、岳智会吟詠集や色紙をいただいた。

 転勤後は、詩吟は自分の性にあっていたせいか、自己流で錬成し至る所で即席の文章を作り宴会でも披露したものである。

 五ノ井さんや大堀さんたちは精進して師範となり各地域で活躍したと聞いている。転勤先でその土地の詩吟の会に属して練成すれば、物になっていたかもしれない。

今となっては取り返せないが、詩吟は自分の好みに合っていたのは確かであった。

 

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4.浜松基地におけるとソフト部

 昭和54年8月、浜松基地の飛行教育集団司令部人事第1班長として着任した折は、前任者でかつ大先輩の三井良彦さんから基地のソフト部長を引き継いでくれといわれ、着任早々からソフト部に関わるようになった。

 浜松市内でも優勝するほどの強いチ―ムで各地の大会に同行することになった。司令部勤務で人事班長として課業外の業務処理もあり、時折練習状況を見守ることが多かった。ソフト部を通じて現場の若い隊員の状況がよく分かることからチ―ムと一緒に行動することを心掛けた。こうしたことから、監督成田光明君の他谷井外明、原田美行、佐藤孝秀、黒木和秀、白岩雅夫の各君などと離任後も交流が続いた。

 クラブ活動で直接プレイをすることはなかったが、部の運営、管理支援面では私の持ち味を生かすことができた。

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 《 昭和54年秋ごろの浜松北基地ソフトボ-ル部 》 

 

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《 成田光明監督のもとに良くまとまった浜松北基地ソフトボ-ル部26名、浜松市で優勝し県大会等へ出場した。部長として若い隊員と飲み語りあった。》

 

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《 浜松北基地ソフトボ-ル部員し一緒に撮った写真 》

 

5 . 浜松基地におけるゴルフ 

 昭和54年8月~56年8月まで飛行教育集団司令部に勤務した。この間司令部のコンペにはよく参加した。腕前は普通で特別に上達せず、楽しく過ごすことに徹していた。

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《 飛行教育集団司令部のゴルフコンペ、川越司令官を囲んで、筆者は左端 》

 

6.芦屋基地におけるゴルフ部

  昭和56年8月、第3術科学校勤務となり第1教育部第4科長となった折は単身赴任であったことから、時の浜島誠第1教育部長、科員の中山博・後藤悟・平野定男の各君と一緒にゴルフを楽しんだ。ここでもスコァよりゴルフを楽しむ方であった。

 

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《 3術校第1教育部ゴルフコンペ、部長浜島誠1佐を囲んで 

 

7.春日基地におけるテニス

  昭和58年3月、春日基地勤務となり西部航空警戒管制団司令部人事部長を拝命した折は、本職の上に基地ゴルフ部長、原町官舎地区の自治会長もやり忙しかった。出来ればテニスを本式に覚えたいと思い昼の休憩時間に始めたが、しばしば業務処理があったりして中断しものにならなかった。テニスは今もって残念であったと思っている。

 

8.クラブ外のカラオケ

 35年余の自衛官生活の中で、幹部自衛官への任官を契機に皆の前で自信をもって歌えるものがないかと考えた結果、郷土の民謡にしようと決めて練習した。カラオケのない時代で地声で唄っているうちに、テレビの時代になり、演歌を唄うようになった。

 在隊間は、もっぱら郷土の民謡か、演歌でしおした。家ではㇾコ-ドで練習した。長年、やっているうちにカラオケが一番抵抗感なく、自然体ですんなりと受け入れられたように感じている。今日に至るもカラオケが続いているのはこの辺に理由があるのかもしれない。

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《 航空自衛隊在職中は、どこに行っても請われれば郷土民謡を披露したり、カラオケの時代は演歌を唄い楽しんだ。 》