昭和の航空自衛隊の思い出(469)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(4)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
 私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
    先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
   昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
    自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
    矢田次夫元統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。
2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
  かって、矢田次夫元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
    随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
    自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。
 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。
   山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・海上自衛官と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。
 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出・香りにつながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。
❶ 「私の歩んだ道」の表紙

f:id:y_hamada:20191129222740j:plain

❷ 揮ごうと経歴

 

f:id:y_hamada:20191129222830j:plain

f:id:y_hamada:20191129223211j:plain

3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
⓭ 戦艦扶桑への乗り組む 

f:id:y_hamada:20191202100803j:plain

⓮ 扶桑から潜水学校へ

f:id:y_hamada:20191202100839j:plain

⓯ パナマ運河爆破計画

f:id:y_hamada:20191202101102j:plain

⓰ 海軍での作戦行動終結

f:id:y_hamada:20191202101137j:plain

* 次回は、復員母と再会、復員輸送と惨劇、結婚、心現れる勉強、慈悲の心と大寒の行、艦を離れ帰郷まで
4 今日における読後感想
❶ 矢田次夫元統幕議長の海兵72期は、昭和18年9月全課程を収めることなく、在校3年で繰り上げ卒業した。

   それは、昭和16年12月8日真珠湾攻撃の華々しい戦果から17年早々から南太平洋で米軍の反撃が始まり、17年6月ミッドウェーの海戦で大敗、同年8月ガダルカナル島に米軍上陸し、18年春に至るまで南太平洋で死闘が展開されていた。

    情勢緊迫下トラック島への航海実習後、18年11月戦艦扶桑に乗り込み、砲術士兼衛兵副司令を命ぜられる。 時に年齢21歳、多数の部下を指揮することになった。

     19年5月には海軍潜水学校に入校、3カ月の速成教育訓練を経て、イ号第37潜水艦に乗艦するも「かっけ」で下船、再び潜水艦イ号第401の艤装員を命じられる。世界にも稀な巨大な潜水艦で七尾湾を基地として訓練を積んだ。

    潜水艦のパナマ運河爆破計画や海軍での作戦行動終結に至るまでの記述内容は、当時に身をおくと、戦いの実相を垣間見ることができた。

❷  海軍における敗戦前後の様相と第1潜水隊司令有泉大佐の自決と遺書「日本は太平洋なくしていきていけない。日本は太平洋をもって必ず再建することを信じて疑わない。私は軍艦旗とともに太平洋で見守りたい」は感銘深いものがある。

    有泉大佐の慧眼と卓見は、矢田次夫元統幕議長の所感と全く同じである。今日の世界の情勢を見るとき、日本にとって太平洋の重要性は時代を超えていささかも変わらないからである。
❸  矢田次夫元統幕議長の戦時における海軍での作戦行動は2年であったが、青年士官として、戦時下における軍隊の指揮統率、実員指揮、作戦運用など語り尽くさないほどの体験と見聞をされたことであろう。

    戦後の混乱期、熾烈な復員業務の従事へと繋がっていったことを知ることができる。

❹    私も現職時代、1尉の頃航空幹部学校の幹部普通課程に学び、戦史、とりわけ大東亜戦史を課題研究した。また、指揮幕僚課程間に、防衛研修所戦史部編纂の大東亜戦争戦史の102全巻を読んだことがある。

    当時の状況に身をおいて考察すると、多くの事が見えるようになる。矢田次夫元統幕議長の「私の歩んだ道」も同じではなかろうか。