昭和の航空自衛隊の思い出(468)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(3)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
 私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
   先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
    昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
    自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
    矢田次夫元統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
   そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。
2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
  かって、矢田次夫元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
    随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。
 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。

   山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・海上自衛官と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。
 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出・香りにつながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。
❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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❷ 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
❼ 父他界、後に海兵合格

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❽ 故郷を後に旅立つ

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❾ 海軍兵学校に入校

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➓ 初日、決意も新たに

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⓫ 不撓不屈の精神養う

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⓬ 兄との永遠の別れ

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* 次回は海軍兵学校卒業・戦艦扶桑への乗り組み・潜水学校海軍での作戦行動終結

まで

4 今日における読後感想

❶  倉吉中学校時代の矢田次夫元統幕議長は、級長をやり、運動もバスケットで抜群の能力を発揮した。当時の級長は成績優秀かつ性格・行動が優良な者が学校から指名されたものであった。

    また、海軍兵学校陸軍士官学校の合格は極めて難関で、進学校で1名出るか出ないかであった。倉吉中学も同じであった。こうしたことからも陸士・海兵は全国から選ばれた俊英の集団でもあった。学校にとっても海兵の合格・入校は名誉と誇りでもあったであろう。

    戦前のわが国においては、どんなに貧しい家庭や門地に関わらず、成績優秀な少年は軍官学校か師範学校への門戸が開かれており、挑戦することができた時代でもあった。

     創設期の自衛隊現職時代には、陸士、海兵の卒業者の上級幹部が多くおられたので、当時の受験と何段階かの試験の模様については、直接拝聴することがあった。

    また、若い副官時代にお仕えした3人の将官は、陸士、海兵と陸大、海大を卒業されており、色々とお伺いすることがあった。

❷   矢田次夫元統幕議長の海軍兵学校に関する回顧の中で、特に印象深いところは、海軍の士官・指揮官としての養成学校として、徹底した「船乗り」としての修練であったことを強調されている。海洋や大空の自然の猛威は熾烈を極め、千変万化、精神的にも肉体的にもその限界に臨み、それを乗り越えたという自信をつみ重ねる教育であったと述懐しておられる。江田島精神は不撓不屈の精神と必勝の信念であり、海軍精神の真髄はここにあったと言える。

    旧軍における将校教育においても、自衛隊の幹部自衛官の教育訓練もしかり、厳しい任務を完遂するには、それ以上の過酷な訓練の積み重ねがあって成し遂げることができる。人間の無限の精神的、肉体的な力の発揮はやはり普段の継続した厳しい練成ではなかろうか。

    指揮官は、部隊・隊員をしてどこまで練成すればどの程度の練度に達するのか教育訓練指導力・評価判断力を有することが求められる。自ら率先し錬成・体得してその神髄を会得することができるものではなかろうか。

    自分の自衛隊勤務を振り返っても同感である。そのことはどの分野においても言えることではなかろうか。

❸  矢田次夫元統幕議長は、胸の病気を患った兄との永遠の別れを書き留められておられる。若い時代の肉親との別れは深い悲しみを超えたものがあったに違いない。大東亜戦争前後を通じて、当時、結核等胸の病気は不治の病とされたものである。子供もながら大変な苦難の時代であったと覚えている。

    それが敗戦により、連合軍の占領下となり、経済社会が混乱した中であったが、ペニシリンという画期的な医薬品等によっていろいろな病気の回復がなされるようになった。今日の医学の進歩と医療機関の充実は、当時からすると驚異的であった。