昭和の航空自衛隊の思い出(467)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(2)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
   私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
   昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
   自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
   矢田統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。

2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
 かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
    随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
    自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。

 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・自衛隊員と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。

 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出につながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。

❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」

❶ 裸一貫で夢をし実現

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❷ 負けずきらいが性分

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❸ 県下の雄の鼻を折る

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❹ 軍人志願と部活動

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❺ バスケットに熱中

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❻ 残念だった弟の死

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* 次回は海軍兵学校合格、入校・卒業まで


4 今日における読後感想

❶ 矢田次夫元統幕議長の「私の歩んだ道」を拝読しての感想は、昭和15年軍人の制服を着て以来、海上自衛官となり、各級の主要指揮官職を歴任、海上自衛隊のトップである海上幕僚長へ栄進され、創設期・建設期の海上自衛隊の充実発展に貢献されたことであります。最後は3自衛隊自衛官の最高位である統合幕僚会議議長・海将(大将)となり、昭和58年3月退官された。この44年間の国家防衛一筋の人生を歩まれたことは、冒頭の見出しのごとく「裸一貫で夢を実現」の表現は、矢田次夫元統幕議長にぴったりであると思いました。
❷ 矢田次夫元統幕議長は、大正12年(1923年),私は昭和10年(1935年)で一回り上の同窓の大先輩であった。回顧随想の中に、毎日の遊び、魚とり、山での栗拾いなどがでてきますが、子供のころの田舎の情景は、倉吉より奥地の東伯郡高城村と日本海海岸の宇野との違いはあるが、田舎の風景や生活環境等はほぼ同じようなものであったのではなかろうかと思いました。
❸ 矢田次夫元統幕議長は、子供のころから体力に優れ、学校では級長で小学校を卒業しています。中学校に進んだ者はどの村でも1~2人であった。特にバスケットポ-ルで抜群の能力を発揮し、「県下の雄の鼻を折る」は少年時代の負けん気の頑張り少年が浮かびます。
❹ 矢田次夫元統幕議長が倉吉中学校に進学したとき、倉吉の町の学校から入校した人たちに気後れしたと記されています。私も新制中学、新制高校へ進学したとき最初に同じように感じました。まさしく田舎から都会に出てきたような感じであったことを思い出しました。
❺ 回顧随想の中に、田舎で見聞した人々の名前が多く出てきました。郷里の羽合町史は手元においてよく読んでいたので懐かしく子供のころを思い出しました。とりわけ、私が教わった宇野小学校の夏目益雄先生や元羽合町長秋田弥太郎氏の名前を拝見し、故郷を再び思い出しました。