昭和の航空自衛隊の思い出(466)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(1)

1   わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏

   私の自衛官人生において、強く印象に残るひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)

   先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。

    昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。

    自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。

    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。

   矢田統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。


2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
    かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。

     随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。

    自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。

     元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、どこへ散逸したのか見つからないでいる。

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の軍歴及び自衛隊
大正12年5月鳥取県倉吉市生まれ
昭和15(1940)年12月海軍兵学校入校(72期)
昭和18(1943)年9月海軍兵学校卒業(卒業生625人)
昭和27(1952)年月海上警備隊入隊(1等警備士)
昭和51(1976)年3月海上幕僚監部防衛部長、7月海将
昭和52(1977)年7月佐世保地方総監
昭和54(1979)年2月自衛艦隊司令官
昭和55(1980)年2月第13代海上幕僚長
昭和56(1981)年2月:第13代統合幕僚会議議長。
昭和58(1983)年3月退官、三菱重工業顧問等
平成24(2012)年4月24日死去(享年88)