元自衛官の時想( 79 ) 日本人の「恥を知る」と「恥を恥と思わない」風潮

1   日本人の「恥を知る」「恥ずかしいことをしない」良風と道徳性

 古くから日本人は「恥を知る」「恥ずかしいことはしない」という道徳性が強かったように思われる。これらは日本人の良風とされてきたが、こんにち「恥を恥と思わない風潮」が広がっているように感じいる。

     昨今のメディアで報じられる不祥事など見ていると、日本人の「恥」の観念や意識がかなり変化しつつあるように思われるので取り上げてみた。

   日本人の「恥を知る」「恥ずかしいことをしない」良風は、これからどうなっていくのであろうか。

    なお、恥について、ネットで調べてみたら、立派な解説をしておられるものがあったので、全く同感するものについては、その一部を引用させてもらったものがあります。

  ❶  イギリス人の小説家、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の「礼儀正しく、恥を知る」日本人観

   イギリス人の小説家、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は日本人は礼儀正しく、恥を知っていると書いている。小泉八雲島根県の松江で暮らしたことがあるというので、お隣の鳥取県で生まれ育ったせいか、高校時代に山陰「耳なし芳一」「むじな」「雪女」などの短編を収めた『怪談』などを興味深く読んだことがある。

   小泉八雲ラフカディオ・ハーン)を記念する松江市立の文学館・「小泉八雲記念館」は訪れたことはないが、自衛隊定年退官後、浜松に居を構え、シニアクラブの旅行等で焼津市にある「焼津小泉八雲記念館」を開設まもなく訪れたことがある。

    最初、どうして焼津かと思ったが、焼津に住み縁が深かったことを知った。小泉八雲は全国各地を訪れ、そこに住み、地域の人々と触れ合う生活をしている。こうしたことから、焼津小泉記念館も明治の文豪である小泉八雲を顕彰し、八雲が愛してやまなかったこの地「焼津」における足跡や地域の人々との交流や温もりあふれるふれあい、さまざまな創作活動などを広く伝えるため、市立図書館南側に平成19年度(2007年)に建てられたとある。
   ここでは、八雲の焼津での足跡や当館の収蔵品が飾られ、小泉八雲その生涯 、八雲と焼津 について知ることができる。

❷   米国の文化人類学ルース・ベネディクトの「菊と刀」に見る「恥の文化」の日本観

 米国の文化人類学ルース・ベネディクトによる「菊と刀」を自衛隊に勤務していた昭和30年代に購入し読んだことがある。特に外国人が見た日本人と武士道について興味があったので紐解いてみたいと思い読んだように記憶している。

    本書は 日本文化を説明した文化人類学の著作であリ、昭和23年(1948年)に日本語訳が出版された。第二次世界大戦下のアメリカの一連の戦時研究の中から生まれた。日本研究の名著といわれている。
 日本の文化を、内面に善悪の絶対の基準を持つ西洋の「罪の文化」とは対照的な、内面に確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」として大胆に類型化した点で知られている。

 古来、日本人にとって「恥」は、たいへん大事な価値観であった。「罪」と「恥」を比べたとき、「恥」のほうを重視したも言われている。
 「恥ずかしいことはしない」という深い道徳性に裏付けられていたからこそ、嘘をいわないのが日本人だった。ある意味では「誇り」であり、それゆえに恥をかかされたら切腹することもあった。その「恥」の観念が、今や大変薄れているように思われる。

2   恥を恥と思わないない風潮

    恥だと思う中には、嘘偽り、卑劣な行為などあらゆるものが対象となるであろう。

    昔は天下国家のことから家庭内の夫婦のこと家族のことまで「恥をさらす」ことをよしとしない気風と気骨があったが、いつの間にか「恥を恥と思わない」人も増えてきた。価値観の多様化のせいであろうか、日本人の心が失われつつあるようだ。

 今は独り善がりな自分だけの価値基準で判断し、他人から見たら恥ずかしいことと思われることを発表したり、大は自国の内輪のことをことさらに外国にまでご注進する傾向が見られる。恥をさらす一つに、世間でいうところの「悪口」「告げ口」の類である。多くは他人への怒り、攻撃であり、邪心、猜疑心、妬みからくるものである。

    一握りの人たちであろうが、時代とともに恥を恥と思わない風潮が広がりつつあるように思える。嘆かわしい限りだがどうであろうか。

3     「恥を知る」とは

   恥を知るとはどうゆうことであろうか。ものの本によると、「知恥・恥を知るとは、人として恥ずべきことをわきまえることです。恥ずべきこととは、殺す・盗む・だます・うそをつく・不正をする・いじめるなど、人の道を踏み外した、倫理に反する行為を指します。」とある。

    私が子どものころ、親が悪(わる)をした子を叱る時、とりわけ父親は「恥を知れ!」を言って怒ったものである。恥を知れと叱られると、子ども心にも自分のしたことはとても恥ずかしいことなのだと後悔し反省した思い出が幾つもある。

   今、「恥を知れ」と叱る親や先生が果たしてどれだけいるであろうか。昨今のわが国は「恥を知る」の意味を知らぬ者、忘れた人が驚く程増えた。政治家にも公務員にも、いや、あらゆる分野階層にウヨウヨ平気で恥ずべき行為がメディアで報じられている。

    「誰でもよいから殺したかった」とうそぶく者さえ出てきた。毎日のテレビや新聞の伝えるニュースのほとんどが犯罪や事件の暗いひどいものがある。「恥を知る」はもはや死語になりつつあるのであろうか。

4    良い意味で「 恥をかく」ことも人生において大切なこと
 一方、良い意味で「恥をかく」が捉えられる場合がある。長い人生の間には、だれしも失敗などで事の大小を問わず恥ずかしい思いをしたことがあるものである。自分の過去を振り返ると、特に若い時は、恥ずかしいと思う失敗をしたことがいっぱいあるものだ。だだ多くの場合、胸の内しまってきた。静かに反省をし、再び同じことを繰り返さないように努めてきた。
 社会的に破廉恥な行動を除けば、一般的な失敗は、「失敗は成功の基」として多くの場合は容認されることがある。人として成長過程において、いろいろな経験を積んて行く諸々の過程で失敗をし、恥ずかしい思いをしながら成長するものである。恥をかくことも人生において大切なことではなかろうか。
 特に、芸の世界では「恥をかく」のを恐れず、上を目指して、繰り返して励むうちに芸も技も術も上達し向上して行くのである。だから文化芸術活動の原点・源は失敗を恐れずに敢えて挑戦する、恥を掻く勇気をもつことが必要ではなかろうか。趣味の芸事など何回も失敗し、大恥かきながら上達するものだ。

5    悪いことより良いことを伝える

    悪事と悪口の区別がよくわかっていなくて、混同している面がある。悪事はしかるべく法律に従って正すべきものである。

  日常生活において、他人の悪口など聞きたくもないものだ。結果的には、人としての自分の評価を下げることにつながっていくものであるからだ。

    それならば、明るい爽やかな事柄を話したり、伝えたいものである。  世の中には明るい楽しいいい話がいっぱいあるのではなかろうか。