元自衛官の時想(63)  平成32年(2020年)の東京五輪・パラリンピックへの期待と昭和39年(1964年)の東京オリンピックの思い出

1 平成32年(2020年)の東京五輪パラリンピックへの期待

   最近は、平成32年(2020年)の東京五輪パラリンピックがメディアで頻繁に話題として取り上げられるようになった。会場やアクセスの建設進捗状況、入場チケットの金額、大会中の熱中症対策から開閉会式の制作体制、聖火地の松島基地の選定などが報じられている。

 これからは日を追って代表選手の育成選考など様々な話題が提供されるようになるであろう。こうしたことで徐々に日本全国津々浦々まで東京五輪パラリンピックの関心が高まっていくに違いない。

 昭和39年(1964年)の東京オリンピック当時と平成32年(2020年)の東京オリンピックパラリンピックとの違いは、発展途上の高度成長期の日本と高度成長を経験し、バブル等幾多の至難を乗り越え成熟し充実発展した日本であることである。

 こうした点から、東京五輪は、なんといっても日本選手の活躍とわが国の充実発展の真の姿を全世界に発信できることであろう。 

2 昭和39年(1964年)の東京オリンピックの思い出

❶ 開会式上空に五輪のマ-クを描いたブル-インパルス

 東京五輪といえば、今から54年前の昭和39年(1964年)日本を沸かせた「東京オリンピック」の開会式が思い出される。

    当時、航空自衛官の2等空尉として入間基地に所在する中部航空警戒管制団司令部に勤務し、中警団司令兼ねて入間基地司令の副官を務めていた。同期の第1期操縦学生の淡野徹君・藤縄忠君・西村克重君の三君がブルーインパルスの一員として日本晴れの東京代々木国立競技場の上空に鮮やかに五輪の輪を描いた感動的な情景が脳裏に強く残っている。

❷ 栄光の銅メダルに輝いたマラソン円谷幸吉選手

 競技の中では、私が自衛官であったせいか、陸上自衛官自衛隊体育学校円谷幸吉選手が東京五輪ラソンで栄光の銅メダルに輝いたこと、その後、昭和43年(1968年)メキシコシティ五輪を控えて同年1月に、期待されながら身体等の苦境で27歳で遺書を残して命を絶った衝撃的な出来事が強く記憶に残っている。

 後年、航空幕僚監部人事課に勤務し、准尉・空曹空士の人事を担当した折、体育学校を何度か訪れ、円谷選手の功績をたたえる諸資料を拝見し涙したことがある。

 円谷選手について、ウイキペディアは、その間のことを次のように記録している。「特に、このマラソン東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。また銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、メダルを獲得した日本選手では円谷選手のみであった。 

 「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。」(Wikipedia出典)

❸ 大松監督と女子バレーボールチーム「東洋の魔女

 東京にオリンピックの競技では、すぐに思い浮かぶのは 、「東洋の魔女」こと、日本の女子バレーボールチームである。「鬼の大松」と言われた大松博文監督を中心としてまとめられたこの女子バレーチームは、175戦連勝という輝かしい記録をマークしている強豪であった。非常に厳しい練習を積み重ねた彼女たちは、3セットを連取して見事金メダルに輝いた。

 東洋の魔女を率いた大松博文監督は、スパルタトレーニングが有名で「相手が10練習してるならこっちは15練習しろ!」といったやり方で あった。また、体格で劣る日本が世界と戦うために編み出したのが「回転レシーブ」で、これを駆使して金メダルを獲得したのであった。選手たちをやる気にさせた大松博文監督の「俺についてこい!」は有名で映画化もされものだった。

❹   三波春夫東京五輪音頭が全国にこだました

    敗戦から立ち上がった上り坂の日本、東京オリンピックを迎える国民の心を明るくした歌が三波春夫の「東京五輪音頭」であった。東京オリンピックのテ-マソングであり、声量があり溌剌とした歌声は日本全国に鳴り響いたものである。

    世界の人々を招くおもてなしの心を国民的歌手がこの歌で広めたもので今日に至るも強く胸に残っている。今再び新しい東京五輪音頭が出てほしいと思うのは私だけの思いであろうか。 

    そう思ってネットで調べてみたら、「2020東京五輪音頭」が制定されていた。2020年東京五輪パラリンピックの大会機運醸成のため、1964年東京五輪時に流行した「東京五輪音頭」を現代風にアレンジする取り組みで、「新東京五輪音頭」であった。まだまだなじみが薄いが日本全国に鳴り響いてほしいものである。

3 健康で 平成32年(2020年)の東京五輪パラリンピックを観たい

 時代は進展している。平成から新しい年号となっているが、次の平成32年(2020年)の東京五輪パラリンピックは、平昌五輪大会での活躍以上に日本選手の活躍が観られるであろう。その時には85歳となっている。そのためには健康であることだ。

 わが国はすばらしい歴史と文化、政治・経済産業・社会機構を有している。厳しい国際社会において、わが国の平和と独立を維持していくためには「真に独立国家としての国のかたち」をさらにしっかりとしていかなければならない。次の東京オリンピックの成功のためにも、今までに倍加して、今後の2年間の確固たる政治外交・安全保障・経済等の強力な活動と発展が求められている。