こころのふるさと(32) 先祖への墓参りと宇野海岸(2)

1   先祖の墓参りと一家をなし大きな役割を終えたことを報告

   新大阪から乗り継いだスーパーはくとは、お昼終点の倉吉に着いた。駅前のタクシーで倉吉から宇野に向かった。中学・高校時代に通学した道路は懐かしかった。時代が変わり新しい建物ができ、街並みがどんなに大きく変貌していても、その面影は残っているものだ。

   宇野に着いて、早速姉宅で着替えをして、まず集落の西端の地区墓地にある両親等の先祖の墓にお参りした。墓前にて、一家をなし大きな役割を終えたこと、家族一同元気であることを報告した。この地区墓地は集落端の東西・2か所あり、集落の各家庭の先祖の墓が建ち並んだ所が良い。お盆の時は、数日間、毎日夕方になると家族が揃って墓前に詣で灯篭に灯をともし先祖を偲ぶ光景が展開された。子供のころの夜景が瞼に浮かんだ。

その後、宇野海岸を散歩した。

 

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《 故郷の宇野区の墓地と濵田家先祖代々の墓 》

2    宇野海岸とたくましく鍛えてくれた日本海

    海岸に立つと、東西の宇野島と日本海は子供の頃と全く変わらないが、昔を知るものとしては、砂浜の広さがすくなくなったことではなかろうか。海岸が侵食されたと言った方がわかりやすい。

    私の子供の頃は、宇野海岸、東西の島と日本海は、自然が与えてくれた子供たちの遊び場であった。魚取り、水泳など親から教えてもらったものではなく、上級生や友達同士が見よう真似ようで学び身につけたものだ。水泳に至っては、亡き松壽兄と一緒に、竹馬の友であった故松村喜一郎君と3人で西島から東島まで小学生で泳ぎ切ったことが思い出された。子供ながらよく泳ぎ切ったものだ。

    昭和の30年代までは、幹線の国道は海岸線ではなく、集落内を走っていた。.今や旧道となってしまった。国道となったところは、海岸の小道であり、道に沿って船小屋がいくつもあり、隠れん坊によく利用した。

    親たちは仕事に忙しく、子供に構っている暇はなかった。農繁期にはお手伝いのため小学校は休みとなったものだ。子供たちは自分たちで自然の中に遊び場所・方法などを見つけ、道具を創意工夫して作ったものである。自然は遊びの宝庫でもあった。

    当日は、風浪は激しく白浪が立ち砂浜の砂が飛んでいた。こんなことは見慣れた風景であり、このあるがままの風景こそ心が落ち着くから不思議だ。

    子供時代は朝な夕なに日本海の潮風を浴びてたくましく育ったことが、今日の健康に繋がってるのかもしれない。集落の背は山々が迫っている。四季折々山と谷を巡った.蜂にも刺されたりして、子供なりに対処術を学んだ。まさに海と山をかけめぐったいっぱいの思い出があるから、ふるさとを遠く離れてもいつまでも愛着があるのかもしれない。  

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《 宇野海岸、子供時代は朝な夕なに日本海の潮風を浴びてたくましく育ったおかげで今日がある。まさに海と山をかけめぐったいっぱい思い出がある。》

 

3 宇野海岸に沿って設けられた国道9号

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 《 平成18年5月12日撮影 宇野海岸に沿って設けられた幹線道路・国道9号 》