山門の人生の教示 人は見えても自分は見えない

    昨日、8日土曜日は、午前中ゆっくり横になって休養した。休むと言うことは大事なことである。休むと肉体・精神は自然に復元して来るものだ。

   7月に入った1日早朝の洞雲寺境内は静寂に包まれていた。定例のお墓詣りをした。山門の掲示板には、「  人は見えても自分は見えない  」とあった。

   私たちは、見るという機能からすれば、他人を全て見ることができる。自分は背面を除けば見ることができる。

    昔から他人のやっていることはよく分かっても、自分のやっていることはわからないと言われている。他人から注意されて初めて知ることがある。

   他人を厳しく見ることは出来ても、自分自身のことになると甘く、しっかりと見つめることにかけることがある。そのことはどこから来るのであろうか。

   また、普段、他人のことは自分の物差しで勝手に解釈したり、評価してしまいがちである。これに対して、自分のことは、なかなか客観的に見ることができない面がある。

    そこに、人間の弱さがある。「他人のことはよく分かっても、自分のことはよくわからないものだ」と言うことをしっかりと自覚することの大切さを示している。人間は強いものと弱いものをもっている。

    昔から「人の振り見て我が振り直せ」と言うことばがある。これと類似の言葉は多くある。他人の行動を見て、自分のありようを見つめ直し、良いところは見習い悪いところは改めよと言うことであろう。  

    こうして見ると、「人は見えても自分は見えない」は、意味深遠な言葉である。私は、この言葉から、いたずらに、他人の外見、行為のみにとらわれず、人間は弱いものであり、自分の行いと内心を常に反省し、人の道を正していくことが求められていると解釈した。  

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 《 平成29年7月1日静岡県浜松市西区神ケ谷町洞雲寺山門の掲示「 人は見えても自分は見えない」 》