昭和の航空自衛隊の思い出(403) 父、次いで長兄が「自衛隊父兄会員」として精神的支援

    今年1月から「自衛隊父兄会」は、「自衛隊家族会」となった。 思い出すのは自衛隊在隊間、父 次いで長兄が自衛隊父兄会の会員として支えてくれたことであった。

   昭和30(1955)年に陸上自衛隊5ケ月、次いで航空自衛隊に35年余勤務し、平成2年定年退職した。まさに昭和の時代を勤務してきたが、父は私の自衛隊勤務を喜んでくれ、息子が自衛官であることを常に誇りにしてくれていた。

    航空自衛隊に入隊してからいつの時代からか、毎年、「出身地カード」に氏名・出身地、所属部隊などを記入したカード提出したものであった。未だコンピュータが導入されていない時代であった。カードの行き先は、出身地の各都道府県に設置されていた地方連絡部(現在の自衛隊地方協力本部)であつた。

 郷土の父と鳥取地連との関わりはどのようなものであったのか分らないが、入隊後割合早い時点で鳥取県自衛隊父兄会の一員になってくれていた。

    自衛隊へ入隊する時、陸上自衛隊では米子駐屯地へ、航空自衛隊では山口県防府基地へと見送ってくれた。当時父の気持ちを知るよしもなかったが、末っ子のわが息子の門出を見届けたかったのではなかろうか。今になってみると、父の心情が痛いほどよくわかる。

 父が亡くなった後は、郷里の長兄がその跡を継いで、自衛隊父兄会会員になってくれていた。羽合支部の副会長にも就いたりしたようだ。文字どおりの「父兄会」であった。

 自衛隊父兄会は家族の立場だけではなく、隊員個人にとっても力強いものがあった。父や長兄が全国的な組織である「自衛隊父兄会」の会員であることは、自分にとっての精神的な支えともなったからである。 

 先日、資料の整理をしていたら、郷里の羽合町自衛隊父兄会から定期的に送られてきたふるさと「ハワイ」の町報と「鳥取」県政だよりが出てきた。昭和62(1987)年1月号であった。父兄会の活動として、国家の防衛の任についていた隊員に対する目に見えた支援であったように思う。国を愛することは、郷土を愛することにつながるものだ。故郷を離れて幾十年になり、新しい家庭を築いていても、生まれ育った故郷からの便りが届けられることに感謝した。

 今の時代はインタ-ネットで郷里の様子や町報の内容をつぶさに知ることができるが、昭和の時代はこうした試みは画期的なことであった。このような心のこもった施策がいつの間にやら故郷のことに関心を向けることにつながり、郷土史を全部購入したり,小・中・高校の同窓会・同級会への積極的な参加、退官後は郷里の県人会への参画、さらには地域の自治会活動への参加につながっていったように思う。

 

f:id:y_hamada:20170117220404j:plain

 《 昭和62年1月鳥取県東伯郡羽合町の町報「はわい」、その後、平成の町村合併で湯梨浜町となった。羽合中学同級生だった羽合町議会議長浅井重幸君の年頭のあいさつが掲載されていた。》

f:id:y_hamada:20170117220431j:plain

《 昭和62年1月鳥取県の「鳥取」県政だより、故郷の情報を丹念に読んでいくうちに、情報通にもなれた。》