昭和の航空自衛隊の思い出(394)  昭和62年展開初期の硫黄島及び硫黄島基地隊(1)

1.  硫黄島基地隊の展開と硫黄島交流

    航空幕僚監部に、昭和60年(1985)8月〜63年(1988)7月までの3年で勤務した。この間、人事課人事第2班に配置され、班員として1年5月総括業務を担当した。その後、61年(1986)12月、空幕人事課人事第2班長に補職され、63年(1988)6月末まで務めた。空幕人事課人事第2班は、班長以下8名の陣容で、航空自衛隊全般の准空尉・空曹及び空士約3万7千名の人事に関わる施策、充員・異動・昇任・昇給等の業務を担当した。

   要員の充員・異動という面では、班長在任間において、昭和59年1月硫黄島に展開した硫黄島基地隊の異動交流、いわゆる「硫黄島交流」をいかに円滑に実施するかが大きな課題であった。

   最初に展開した第一陣が新設部隊の建設業務を見事に果たし所定の任期を終了したものから逐次交代要員を配置していった。

   何事もそうであるが、最初が肝心である。初回のロ―ティションをいかに円滑に実施するかが、今後の交流に大きな影響を与えるからであった。

    硫黄島勤務は、本土から長距離、火山活動の厳しい自然条件下にあり、いままでの離島サイト、沖縄などとは全く違った勤務・生活環境にあったことであった。

 こしたことから、当時、硫黄島の勤務年数の基準は、1〜2年であった。毎年度、任務遂行に支障のないように適時適切に交代要員を送り込む交流の計画の作成、実施は重要な業務であった。

    当時のメモによると、昭和60年度の硫黄島交流は約100名、62年度になると約50名と記録されているところから見ると、展開後、逐次異動交流が安定化の方向に向かっていたものと思われる。

2.昭和62年硫黄島及び硫黄島基地隊研修

    准尉、空曹及び空士人事を主管する班長として、硫黄島の勤務環境の実態を把握するため、昭和62年8月18日~19日、1泊2日の行程で真夏の硫黄島研修に出かけた。研修には充員計画担当の石田敏晴3佐と福田文紀2曹が同行した。移動は入間基地からの定期便を利用した。

 何よりも現地に出かけて、自分の目で確かめ、周囲の環境を肌で感じることが硫黄島交流の現状と問題点を探り、改善向上を図ることにつながっていくものと考えたからである。その後の各種交流においても、その必要性を熱誠をもって説明したりしたことが強く記憶に残っている。

    研修にあっては、硫黄島における日米の戦史を改めて読み直し、諸資料を収集したが、30年の歳月が流れ、今はこれらの資料はどこかに埋もれて見当たらない。唯一残っているのはアルバムに貼られた写真等のみとなった。

 当時は、航空自衛隊の部隊は、展開した当初であったことから硫黄島の現状を一般社会に対して積極的にPRするに至っていなかった。今日は、「硫黄島紹介」として航空自衛隊海上自衛隊監修のパンフレットがネットに掲載されて、多数の写真などが観られるようになった。

 研修後、硫黄島に関する書物・物語・映画・テレビ映像など一層関心をもって見るようになった。

 硫黄島基地隊研修にあたっては、次のような日程を組んでいただき、部隊長はじめ幹部及び准曹の皆さんに大変お世話になった。

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  今から30年前の昭和62年(1987)の硫黄島及び硫黄島基地隊についての状況を述べる前に、現在の硫黄島基地隊について、硫黄島紹介パンフレット(航空自衛隊)の一部を紹介しよう。

3. 現在の硫黄島紹介パンフレット(航空自衛隊

  硫黄島紹介パンフレット(航空自衛隊)出典