山門の人生の教示  山鳥のほろほろと鳴き声に亡き親を思う

1.山門の掲示

 11月1日、墓参りで浜松市西区神ケ谷町洞雲寺の山門に立ち、掲示板を見つめた。

山鳥のほろほろと鳴く声聞かば
父かとぞ憶う母かとぞ思う
       

 ネットで調べると、「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かと思ふ母かとぞ思ふ」とあり、 これは、奈良県にある薬師寺の僧侶だった行基の作品で、「玉葉和歌集」巻19-2627に収録されているとのこと。 「ほろほろ」と鳴く山鳥の声をきいていると、父が呼ぶ声、母が呼ぶ声ではないかと思い惑うようになると詠っていると解されているようだ。今は亡き父や母の慈愛をしのぶ歌であろう。

 作者は僧侶であり、修行で山野を駆け巡ったり、行き来したりしたり、一方、自然に囲まれた静寂の寺院で修行する日々であったであろう。

 年齢的にはいくつの頃の作品であろうか。山鳥の鳴き声を聞いて両親のことに思いをはせるころといえばそれなりに歳を取っていたのであろうか。

 

2.亡き親を思う気持ち 

 80歳を過ぎてみると、この句を素直にが受け止めることができる。飾ることなく素直に心情を表現しているからだ。明快である。

 掲示では、父かとぞ憶うとしている。同じ思うと憶うと比べると、憶うは語感から追憶などのように父の面影をしのぶ気持ちが強いように感じた。

 親を思う気持ちは、子供の頃、青年期、壮年期、老年期によって異なってくる。親が生きているころと、すでに亡くなった時では随分と異なってくるものだ。自らが老年期に入ると大抵の場合、親はすでに逝ってしまっていることが多い。

 山門に立って、静かな境内で耳を澄ませていると、鳥の鳴き声が聞こえてくる。父や母が呼んでいるようにも思える。肉親を失うと誰かが呼んでいるようにも感じる。その人のおかれている立場・環境などによって、きっと受け止め方や感じ方が違うであろう。

 人は永遠の別れを告げた時から、亡き人を思うものである。今だったっら親にしてあげられたことがいっぱいできたのにと思うが、孝行したい時には親はなしである。後の祭りというものである。

 人は日常生活の中でいろいろな思いを閉じこめたり、封印することがある。自分の心情を素直に表し詠めることは幸せではなかろうか。親を思い、子を思い、孫を思う気持ちは歳と共に強くなってくる。さらに日々の平安を願うものだ。これが人の情というものであろうか。  

 

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 《 浜松市西区神ケ谷町洞雲寺の山門にある掲示板 》