山門の人生の教示  吾唯足るを知る

1.「吾唯知足」 

  10月15日墓参りをした。浜松市西区神ケ谷町洞雲寺山門の掲示は、「吾唯足るを知る」であった。

    ネットで調べてみると、解りやすい解説の一つに「京都に大雪山龍安寺という石庭で有名な禅寺があり、水戸黄門こと徳川光圀公が寄進したと言われる「吾唯足知」のつくばいがある。つくばいは銭形で、真ん中には水をためる正方形の孔が開いており、その孔を中心として、時計回りに五、隹、止、矢と彫られている。」

 孔を「口」の字に見立てると、「吾唯知足」の“口”の字を真ん中に置いて共用し、周辺に4文字を配置した造形となり、「吾唯足知」、つまり「吾は唯足を知る」と読むことができるとある。

 

2.「吾は唯足を知る」  

    「吾唯足知」を同じくネットで調べてみて、最も納得できたのは、禅語の「知足 (ちそく)〈遺教経〉」についての解説であった。 
 遺教経に、「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。不知足の者は富むといえども、しかも貧し。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。是を知足と名づく」とあり、「足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かであることが出来る。」とあった。( 知足 (ちそく)〈遺教経〉出典 )

 

3.人の生き方の基本は自分の過不足を知ることにある

 「吾は唯足を知る」について、私は宗教家でもないし、ことさらにこの言葉の意味を論じる知識を持ち合わせていないが、人間の欲を戒めることにとどまらず、もっと幅広くとらえ、人の生き方を諭したもので、「自分の過不足を知る」ことが基本であること、「自分の過不足を知れ」と教示した言葉であると理解した。「唯」を唯一ということがあるように、自分にとってちばん大事なこと、一つととらえた。

 自分の何たるかが分かれば、自分の過不足が見えてくるものだ。自分が認めた過不足に対して、それを補う、バランスをとる生き方・行動を取ればよい。

 人は自分の過不足が分かっているようで実は分かっていないために悩み・苦しみ・誤ることが多い。老若男女・年齢・身分・地位・財産・学歴・健康などにかかわりないのではなかろうか。

 80歳を過ぎて、人前では自分の過不足が分かっているようにふるまっても、実は時として自分が分かっていないことに気付き恥じ入ることがある。終生、前向きに自分の過不足を補う生き方が求められているのではなかろうか。 

 「吾は唯足を知る」は、奥深い言葉である。人の生き方の基本を諭した言葉と理解した。

 

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 《  浜松市西区神ケ谷町洞雲寺山門の掲示は、「吾唯足るを知る」であった。》

 

 

 

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《 五穀豊穣の心ここにあり、天に祈り、汗して耕し、やがて作物は実る。》