昭和の航空自衛隊の思い出(363)  部下統率の余技から人生を楽しむカラオケ演歌へ

1.部下統率の余技と練成

 昭和30年(1955)1月陸上自衛隊、次いで同年6月航空自衛隊に入って集団生活をし、幾度が演芸会的なものに参加した。この時代は今のように優れた音楽機器あり、カラオケありの時代ではなく、マイクよりかすべて肉声中心であった。娯楽といえば、時折、隊内で巡回映画を楽しんだりする時代であった。

 大集団ともなると、演芸会では自信のある芸達者が多数いるものだ。ここでは一隊員として参加し片隅で静かに楽しみながら見物しておければよかった。

 ところが、昭和34年内幹候試験に合格して、所定の幹部候補生課程を学び、要撃管制幹部課程を修了し、初級幹部の端くれになって、要撃管制官として千葉県の峯岡山サイトに赴任した。

 最初の幹部団の歓迎会では、あいさつ代わりに、とにかく何かをやれということになって、新任者はそれぞれ流行歌やお国の民謡を披露した。皆んな見事な出し物をしたのに対して、私は時の流行歌を唄ってお茶を濁してみたが、あまりぱっとしなかった。

 当時の先輩幹部は、「部下隊員を率いるには何か自分なりの得意なも物を身につけて存在感を示せ」と助言してくれた。こうしたことから真剣に取り組み何か物にしようとひそかに練成訓練に励んだ。カラオケのない時代であるから、郷土民謡「貝殻節」「関の五本松」などのレコ-ドを買って練習に励んだ。子供のころから音楽の才能があるわけではないが、努力の甲斐あって宴会の度に披露して少しづつ自信を持つようになった。

 その後は、カラオケの時代がやってきた。人生を語る演歌に絞り練成訓練をした結果、余裕もできて自信をもってどんな場でも臨めるようになった。特別上手ではないが、自分なりに考えて歌えるようになってからは、いつ指名されても躊躇することなく対応できるという自信がついてきた。この自信が重要であった。

 少しづつ階級と職務が高くなるにつれて、いろいろな席で挨拶したり、余興で歌を披露する機会が多くなった。自ら進んで手を挙げて歌うことはないが、指名されたり求められれば、気軽に応じることにした。

 郷土民謡と演歌の二つに決めて、その場の雰囲気と構成メンバ-に合わせるように曲目を決めて歌うことにした。

 

2.人生を豊かにかにするカラオケ演歌へ

 自衛隊勤務においては、最初は部下統率のための余技的なものから年齢と階級・職務が上がるにつれて人生を楽しむための趣味へと転化していった。郷土民謡も演歌も人生を楽しむものになっていった。

 自衛隊退官後は、地域のカラオケクラブに入ったりして楽しんできた。約20年近くになろうとしているが、毎週の練習日には参加している。この頃は民謡はご無沙汰している。もっぱら演歌が一番自分に合っており座りがよい。この頃は心で歌うものだと思って演歌を歌っている。

 声を出すことは健康につながる。楽しみながら健康であれば一石二鳥というものであろう。そうしたことから今が最高潮なのかもしれない。これは人生の終末になって明らかになるであろう。

 もう一つ、歌手の熱唱する演歌を聴くというのも大きな楽しみである。仲間の歌を聴くのもよいものだ。みんな個性があってよい。

 

現職時代

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《 演歌も自分を知ってもらうから皆で楽しむに進んでいった。》

 

退官後の今日 

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《 28.9.19 神原町敬老会演芸の部でカラオケ演歌を唄う。》