昭和の航空自衛隊の思い出(361)  空幕人事教育部長と人事幕僚勤務の戒め 

   昭和60年(1985)8月〜63年(1988)7月までの3年間、航空幕僚監部人事教育部人事課に勤務した。空幕勤務間、公私にわたり優れた上司に出合い感銘を受けることが多かった。

 この間、人事教育部長は将補髙橋恒清将補(防大1)→宮下裕将補(防大3)→那須秋男将補(防大4)に変わった。

 空幕勤務では、一班員の場合は、人事教育部長室に出入りするのは決裁を仰ぐ時ぐらいであったが、 昭和61年(1986)12月人事第2班長に補職されてからは、しばしば、宮下裕人教部長のもとに諸報告で出入りをするようになった。次いで、62年(1987)年7月1佐に昇任した折、那須秋男将補が空幕人事教育部長として着任され、更に縁が深まった。

 当時のメモによると、新旧部長の交代で、那須将補は着任の辞で「①隊員が生き生きとした勤務ができるように ②部隊の意見を吸い上げよ ⑶在任間一つ以上のものをやり遂げよ ⑷部隊が円滑に業務が運営できるようにせよ ⑸仕事はオ-プンに議論して進めよ(密室でこそこそやるな)」と話された。宮下将補は離任の辞で、「上級者ほど仕事をやれ(民間企業を見習え)」と最後の言葉を残して次の任務へ向かわれた。、 

 お三方とも実に立派な将官であった。髙橋恒清将補については、いつも駆け足で登庁、人格識見に優れた方であった。宮下裕将補は第2高射群司令時代に「宮下語録」を部下の幕僚たちがまとめたほど実に泰然として指揮統率に優れた方であった。那須秋男将補は、私と同じ要撃管制幹部出身で、人事に関して優れた卓見を持っておられ、人事教育部内の指導もユニ-クでとても強い印象が残っている。

     那須部長が7月着任されて、9月には人教部班長が主体のカラオケ懇親会がスナックで行われ34名が参加した。カラオケ教室の先生が審査員で、有志がカラオケを披露した。入賞者には部長から賞品が授与された。私は当時のヒット曲、竜鉄也の「奥飛騨慕情」を唄い第2位であった。

    初級幹部時代から部下隊員を束ねるには、皆の前で披露できる何か得意なものを持てと、上司から厳しく鍛えられた成果であったからであろうか。

   那須部長の狙いは、優秀な幕僚揃いであるだけに仕事と同じ位に趣味も大事である。趣味は楽しくということであったように記憶している。

     当時の日誌に、人教部長那須秋男将補を取材した安保・防衛問題の専門紙の切り抜きが貼り付けられていた。中央部に勤務する人事幕僚勤務の戒めと人事施策や人事管理の方向を伝える興味深い記事であったので、貼り付けたのであろうか。当時の状況を知る資料として紹介しよう。 

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