昭和の航空自衛隊の思い出(345) 軍事プロとしての研鑽努力と決意

空幕勤務の昭和61年8月ごろの日記に次のように記していた。   

1.軍事プロの資格

 旧陸士出身の竹中義男元陸将は、師団長の時、全幹部に厳しく次のことを指導したという。

「毎日、尉官は1~2時間、佐官は3~4時間、将官は5時間以上勉強しろ。官舎の灯火を24時前に消すようでは、軍事プロの資格はない。」

「階級、地位が上がれば上がるほど、軍事はもとより政治、経済、社会情勢に精通して視野を広め、思考力、判断力に磨きをかけよ。又、上級者は事務的事項の権限を下級者に委任すれば、日中も勉強は十分可能ということであった。

現代の戦術、技術は日進月歩、軍事プロパ-の問題は、政治、経済等、国際社会の諸要因複雑に関連し機能し合う。」

注:

第6師団長

竹中義男 1975.7.1 - 1977.3.15 陸士56期 在米大使館参事官防衛駐在官
→1975.6.1陸上幕僚監部
陸上自衛隊富士学校
兼 富士駐とん地司令

 Wikipedia出典)

 2.軍事プロとしての研鑽努力

     竹中義男元陸将の発言と共通していたのが、西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令の田中憲明将補の指導であった。当時、面識のない竹中さんの言葉をメモしていたのは田中さんの事が頭にあったように思われる。

 それは自分の考えていることと全く同じであると思っていたからである。自分自身の研鑽努力はもとより、初級幹部時代から幹部の役割と空曹の役割は全く違う。競合することもなく競争相手ではない、空曹に任せるべきことはまかせよ。空曹の仕事を取るな、それよりか時間を作って、幹部は上は国家天下のこと、情勢判断、戦略を練ること、施策の方向を決めること、部隊の運営方針を明示し指揮管理に専念することなどを強調してきていたからであった。 

 航空自衛隊の創設期には、新品2曹の私が学校全体の体育大会や水泳大会の計画起案をしたりしていた。他のどの空曹もむしろ幹部の仕事の一部をやっていた。それだけ航空自衛隊の空曹の資質能力は高かったのである。

   そのような経験をしたことから、人事幹部になってからも少人数のチームの長として、大綱・方針を決めて、デ-タの集積・計数計算・整理などは全幅の信頼をおいてすべて人事空曹にやってもらっていた。

   その作業間に、方針通り作業が進んでいるかの内容の確認と軌道修正、出来上がったものをどのように今後活用処理するかに重点を置いた。一歩も二歩も先の作業をすることにしていた。 

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《 西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令の田中憲明将補の指導、基地新聞「春日」の記事抜粋 》

3. 読書と資料収集・分析・知的練成

 空幕勤務は激務ではあったが、結構本を買い込み読書することができた。日記には購入したした書名と読後感と気に入った項目・言葉を書き留めていた。

 職務に関する事項については、資料収集に努め分析検討・評価し、自分なりのと考えをもつ事にした。

   幸い、班員として、1年余の勉強の期間があったので、人事第2班に関することは概ね掌握することができた。主要項目別にファイルを作成し、いつでも実務に役立つように整理した。

 班員の時代はある程度限られた範囲となるが、自己の識能の向上に努めるともに次に備える準備をしていた。

   どんな職務を与えられても働ける体制を作ることに着意をしていた。最初にして最後の空幕勤務であるだけにどんな職務を与えられてもその場その場で全力投球することに心がけた。

    当時、班長職が約束されたりしていたわけではなかったが、空幕勤務になった以上はそれなりの働きをしてもらいたいとの周囲の期待があった。

4.空幕勤務における自己の役割

 当時の状況を空幕勤務2月余たった10月10日の日記には、「自己の役割」と題して次のように記していた。

 「自分に与えられ、かつ、期待されているものは一体何なのか、じっくりと見定めて仕事に取り組む必要がある。部内出身にとらわれることなく大局的立場から将来の准尉・空曹及び空士の人事はいかにあるべきか常に問う必要がある。登板の日を期し、実力を蓄え全力投球することが大切だ。じっくり勉強し、明日に備える気持ちだ。出陣に抜かりがあってはならない。」

 空幕勤務を命じられてから、心したことは、部内出身、操縦学生出身といった小さなことにとらわれず、出身期別を超越して、航空自衛隊の任務遂行及び将来の発展にとってどうあるべきかという大局的な立場ですべてを律する事を固く決意したことであった。

   自衛官人生の総仕上げの時期において、「軍事プロとしての研鑽努力」の根底には、「空幕勤務における自己の役割」が大きく作用していたように感じる。