昭和の航空自衛隊の思い 出(306) 防衛記念章の制定前後(1)

1.    防衛記念章の制定の概要

 1999年度防衛白書において、「防衛記念章」について、次のように紹介している。

 「自衛官が制服の左胸に付けている布製のリボンは、防衛記念章という名称で、表彰などを受けた自衛官、特定の職務にあった自衛官の経歴を記念して、制服に着用を認めているものです。この防衛記念章は、優秀隊員であることの自覚と誇りを持たせ勤務意欲の向上を図り、併せて指揮官の指揮統率を容易にすることを目的に昭和57年度から制度化されたものです。」
( 防衛記念章に関する規則、記念章の内容等は本項では省略します。)

2.    防衛記念章制定に至るまで

❶    防衛記念章について

 防衛記念章が制定されたのは昭和57年であった。制定に至るまでの歳月は長かった。自衛官に対する叙勲など抜本的な課題を抱えながら、国際的な軍人の処遇からすれば曲がりなりにもあるべき姿に一歩近づいた感じであった。

 世界の各国の軍隊において、軍人に対する基本的処遇から勲章・記章・略綬などの取り扱いはほぼ同じようなものである。自衛官は一歩海外に出れば、国際的には軍人としての処遇を受けるにもかかわらず、国内においては自衛隊は軍隊でなく、自衛隊であるからとあらゆる面で国際水準から外れていたからである。

 自衛隊自衛官の位置づけという抜本的課題からすれば、防衛記念章など小さな事柄であるが、昭和の時代を振り返ることにする。  

❷.  勲章・記章・略綬についての知見

    大東亜戦争時、小学生であったので軍人の胸に付けた勲章・記念記章などは写真などで知っていた。また、戦後、戦時中に長兄がもらった勲章、従軍記章や軍隊手帳などはわが家の仏壇の奥にしまってあったので、見たりさわったりしたことがあった。

    昭和30年6月航空自衛隊に第1期操縦学生として入隊した。操縦学生基本課程を卒業して操縦課程に進むも適性面から断念し部内幹候から幹部に任官した。

   昭和36年9月要撃管制官として峯岡山サイト防空指令所(ADDC)に勤務し、米軍連絡チ-ムの将校と肩を並べて警戒監視及び要撃管制任務に就いた。この時初めて隣り合わせで親しく会話をし、彼らの胸につけた輝かしい勲章・記章などの数々の略綬を見るにつけその一つ一つの受章理由について質したことがあった。

 当時、航空自衛官の胸には、航空き章がついているだけで、その落差に国際的水準・処遇からすればどこかおかしいのではないかと違和感を覚えたものであった。

 昭和41年5月中部航空警戒管制団司令部副官として、入間基地に勤務し、基地司令に随行して米軍の司令官パ-ティ等に出席する機会が増えた折、胸いっぱいの略綬を装着した米軍将校夫妻と接して、国際儀礼上からも渉外上からも自衛官の服装の外見上からもどうにかならないものかと体験することがあった。

 当時、私の仕えた基地司令は旧陸海軍の軍歴があり、いくつかの勲章・記章・略綬を持っておられた。司令山口二三将補の略綬の件で、新品の留め金等をそろえるため各所を調べたところアメ横に専門店があり、これらの類は何でもそろっていることを知り、社会勉強する機会があった。金鵄勲章まであるのには驚いた。

 昭和の40年代初頭では、入間基地周辺に在住の旧陸海軍の高級将校の中には、基地司令を表敬訪問する時には、威儀を正して戦前に受章した勲章・記章や略綬を着用する方もあった。 

❸.米国軍人への航空き章の贈呈

 航空自衛隊創設・建設時は、選ばれた隊員が米国へ留学し、米軍から記章を授与される事例が多くなった。

 昭和39年ごろ第44警戒群本部運用班長の時、米軍連絡チ-ム長の少佐が離任するにあたって、群司令から航空き章を贈呈したところ、在日米軍司令部から、群司令が授与した旨の証明書の交付を求められたことがあった。

 彼らがいかに、軍務において、記章の重要性を認識しているかの証左であった。一群司令の贈呈であっても、日本国から授与されたものと認識していることであり、人事記録に記載され、名誉と功績の証となるのであった。

 このときどんな記章一つであっても、世界の軍人にとっては経歴と功績の証であることを深く理解したものであった。今でも当時の出来事が強烈に印象に残っている。

❹.本来目的と外国軍人との外見上の均衡

 創設時の自衛隊には旧陸海軍経験者が在籍しており、戦前に勲章・記章を受章した者もいたが、戦後の叙勲基準では自衛官が現職の間に叙勲されることが無くなり、記念章も授与されれることが無くなったため、昭和57年当時、現職自衛官で勲章や略綬を着用できる者はほとんどいなくなっていた。

 他方、世界各国の軍人は、制服に多数の勲章・記念章・従軍記章などを着用していた。常装には胸いっぱいの略綬を着用していた。

    このため、自衛官の経歴・功績・指揮統率・士気高揚といった本来目的はもとより海外へ派遣された防衛駐在官等に対しても、外国軍人との外見上の均衡をとるという必要性と機運が高まった。

 様々な理由背景から制定された防衛記念章は、その後、自衛隊の活動範囲が拡大し、国際貢献等からも当時の制定は時期を得たものであったと思われる。 

❺.  防衛記念章制定以前の表彰 

 防衛記念章は隊員個人に対する表彰と密接な関係がある。自衛隊創設以来隊員に対する個人表彰は功績に応じて表彰が行われてきたが、人事記録に記載されるだけで防衛記念章のように隊員の制服に外形として現れなかった。

 昭和57年防衛記念章制定を境に、直接的に隊員の個人表彰の結果が制服上に表示されるようになり、個人表彰に関して微妙な変化が生まれてきたように記憶している。

 それは、幹部は率先して職務遂行するのは当然で、上位の階級になればなるほど、余ほど顕著な功績がない限り表彰しないという考え方があった。また、空曹に関しては指揮統率及び部隊運営上、昇任と表彰をうまく使い分けていく傾向があった。

 したがって、表彰基準枠の運用及び指揮統率面から昇任プラス表彰のダブルは避け昇任を優先し、選考過程で表彰を保留する傾向があった。

 しかし、創設以来のこうした一般的な傾向は、防衛記念章の制定以降は逐次是正されていったように記憶している。今日、防衛記念章と隊員の個人表彰が本来のあるべき姿になってきたように受け止めている。

 

3.  私の在隊間における防衛記念章

  昭和の時代、35年余における自衛隊勤務において、防衛記念章は、永年勤続(10年以上)、永年勤続(25年以上)の防衛庁長官表彰、3術校4科長時の4級賞詞(職務遂行)、西警団人事部長時の3級賞詞(職務遂行)及び航空幕僚監部勤務の5個であった。

 現在からすれば少ない数であるが、主として総隊・方面隊・航空団の各司令部の幕僚勤務であったので、当時は普通であった。 

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《 昭和58年の末の西警団直轄部隊長会議、 防衛記念章の制定から1年半後ぐらいであり、1佐以上が2~3段、2佐以下は1段が一般的であった。》

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 《 昭和60年に西警団司令部人事部長当時の防衛記念章、同年代・同勤務年数 の准尉・曹長は本数的には私と同じくらいであったように記憶している。》