昭和の航空自衛隊の思い 出(288)  服務・訓練・厚生の各「だより」の発刊

1.  情報化社会における情報の共有・伝達  

    昭和58年3月西警団司令部人事部長として着任した時、部隊における.指揮・命令の徹底に付随して、任務遂行の基盤になる情報の共有による全般状況の周知と理解を図るため、「かわら版的な情報連絡紙」の取り入れについて、策案を持って臨んだ。

 着任後、しばらくしてから訓練班長竹重満夫3佐が訓練に関し各部隊の訓練担当にメモ書きではあったが、連絡紙的なものを作成配付していることに気がついた。

 そこで、これを更に発展させたいと考えた。長年温めてきた「かわら版的な情報連絡紙」についての策案を各班長に説明し、実行策について人事・服務・訓練・厚生の分野に関し、各班長が中心になってアイディアを出して、従来にない発想で任務意識・意欲と参画を高める内容のあるもを検討してもらった。

 このかわら版的な情報連絡紙が軌道に乗れば、各班と部隊間の関係がより緊密になり所掌業務も円滑に進むとの理解と認識が深まることに努めた。

 このためには、従来型の発想を転換し、「かわら版」的なものとして、命令調の文書形式がら脱して、固い文書表現を避けて、砕けた柔らかいものとする。現場の指揮官、末端の隊員がまず興味を持って読んでもらえる内容にするよう努めた。 

 隊員の関心事である「離島の異動管理」はもとより、昇任試験・人事管理・服務規律・特技実務訓練・一般訓練・福利厚生など自衛隊勤務と生活に直結した多様かつ具体的な課題について取り上げることにした。

 実際に服務・訓練・厚生の各「だより」の発刊は、「訓練だより」から始め三つとも軌道に乗るようになった。「訓練だより」は、時の訓練班長竹重満夫3佐は実に文才のある有能な教育幹部で率先して作成してくれた。次いで津出文宏3佐にバトンタッチし訓練業務は大きな成果につなげていった。「厚生だより」は、厚生班長白壁和壽3佐の柔らかいタッチで記事がつくられ、隷下部隊の厚生業務は一段と向上した。

 「服務だより」は、人事班長北方伯佳3佐の誠実な人柄を発揮し、多彩な内容のものとなり、特別服務指導官として道添勉曹長を配置し、隷下部隊に対して服務に関する啓発情報、指導参考資料の提供に努めた。私の在任間で77号、更に継続発行されていった。

 記事として取り上げた項目・内容については、その時だけの単発・一時的ではなく継続して真剣に取り組むことにした。そのことが全体の意識の変革・練度の向上・業務の充実に繋がっていき、相乗効果をもたらした。

 

2.    かわら版な情報連絡紙の発想

 実は、 かわら版的な情報連絡紙の発想が形成されていった過程は小学校の時からであった。小学生6年生の担任、岸田善吉先生は「養心録」なる日記を勧められた。中学では担任の鈴木治文先生、絹川初春先生のとき、今でいう学級通信的なものの指導を受けた。こうしたことから中学生と高校生時代は、見よう真似ようで子供独特の「壁新聞」的なものを作ったりした。

 昭和30年航空自衛隊に入隊し、操縦課程に進むも飛行適性から操縦者の道を断念、34年頃の浜松の空曹時代から-本部業務をしながら、部隊内における情報連絡紙的なものはできないかと考えるようになった。それは、基地新聞のようなものではなく、小隊や編制単位部隊レベルで「融和団結と情報の共有」を狙った、くだけた「かわら版」的なものであった。

 幹部となり、部隊で勤務経験を積みながら実力をつけることが先決であった。そのうちに朝雲新聞等で、海上自衛隊の艦内新聞等が紹介されるようになった。こうしたことから長年胸に秘めた「だより」構想は固まってきたが、各部隊の勤務では実行に移せる階級と職務ではなくじっと温めてきた。

 この間、小松時代の子供の小学校担任関本孝三先生の「学級通信」には力づけられた。自分が狙っていたものの手づくりの原型を見る思いであった。いつの日か実行できる機会はないかと深く胸にしまってきた。

 階級も上がり、1尉、3佐になった頃、業務隊長等の編制単位部隊長になれば、隊内で隊員と家族を対象とした「かわら版構想」を温めていたが、もっぱら本部、司令部の幕僚勤務でその機会は訪れなかった。

  こうしたこともあって、このたび警戒管制団司令部人事部長とという2佐職の配置に就き、副司令・団司令に「服務だより」等構想のお話して承認をいただき実行するに至ったものであった。

 

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 《 「服務だより1号」の一部、服務だよりの発行と特別指導担当官制度のスタ-ㇳの記事 》

 

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 《 昭和45年ごろからわが国では、「サラ金地獄」といわれる事象が蔓延し、毎日の新聞紙上をにぎわす各種の事件が発生し、社会的な一大問題となった。自衛隊も早期に対処策を講じるも、自衛隊員も社会の一員、じわじわと家庭内にも侵入し、身近に事件が発生した。》 

 

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《 昭和40年代の一般社会より非常に早い時期から「飲酒運転撲滅」を目指していた。59年、定年退職8ケ月の隊員がちょっとした気のゆるみから飲酒してハンドルを握り、衝突事故から警察官につかまり、一瞬にしてすべての名誉を失った事例が発生した。人事担当として終生忘れられない残念な事案であった。》 

 

3.   自衛隊退官後の情報連絡紙「かわら版構想」

 平成2年3月末航空自衛隊を定年退官した。退官後は、隊友会支部長についた時、情報連絡紙「隊友はままつ」を創刊した。 地域の自治会長に就任するや「神原町だより」、花の会の代表として「花だより」、更にはシニアクラブ会長として「神原会だより」なるものを創刊し今日まで続いている。 

 自衛隊退官後も情報連絡紙として「かわら版構想」を実現できたことは、それぞれの組織の代表などにつく機会が与えられたことにあった。自分の人生の歩みの中で多少でも考えていることが実現できたことが生きがいに繋がった。感謝しています。

 「かわら版構想」は、いずれも形式・内容が時代や組織の活動によって変化していくが、創設時の考え方、精神が受け継がれていることに感謝しています。