昭和の航空自衛隊の思い 出(276) おらが部隊のシンボルマ-ク(8) 西警団第19警戒群(海栗島)

1.  おらが部隊のシンボルマ-ク 

 航空自衛隊のみならず、各自衛隊の部隊は特色のあるシンボルマ-クを制定している。昭和58年3月~60年8月まで2年半西部航空警戒管制団司令部人事部長として勤務した当時の隷下部隊のシンボルマ-クと現在公表されている部隊シンボルマ-クを比較してみたらデザインや色彩などほぼ同じであるよう見受けた。

 法規に基づき授けられる指揮権・指揮官・部隊を象徴する部隊旗と異なり、部隊・隊員の総意を結集して決めた部隊シンボルマ-クは部隊団結の象徴であり、常時広く愛用され、ジャンバ-等の胸部に着用していることが多かった。

 シンボルマ-クの制定とデザイン採用にあたっては、隊員から広く応募したりして、部隊の任務・機能と隊歴があらわされている。いったん制定したデザインと発想・考えは何十年を経過しても受け継がれているようだ。部隊の伝統をいかに大切にしているかがよく分かる。

 現職時代、どこの部隊を訪問しても司令部の玄関では隷下部隊のシンボルマ-クが展示されているのをよく見かけたものだ。

    西警団勤務当時のアルバム帳に隷下部隊のシンボルマ-クの制定の由来等が載った基地新聞「春日」の切り抜きが張られていた。どうしたことか一部が欠で全部隊が揃ってはいないのが残念であった。

 私の利用しているタンスの引き出しに、在職当時の各部隊のネクタイピンのほかに新品の西警団・シンボルマ-クの一部が袋に包んで保管されていた。30年以上タンスに眠っていたことになる。全部が刺繍のシンボルマ-クは写真で見るより実に良くできているのに驚くばかりである。自衛隊の部隊シンボルマ-クを収集しているマニアがいるくらいだからお宝の一つであろうか。

 

昭和時代の西部航空警戒管制団のレ-ダ-サイト

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2.西部航空警戒管制団の各部隊シンボルマ-クの昔と今 

第19警戒群のシンボルマ-ク

❶ 昭和の時代( 第19警戒群‣海栗島分とん基地)

   残念ながらシンボルマークと由来等の春日基地新聞「春日」の切り抜き記事資料はない。幸い私が西警団に勤務していたころ保管していた海栗島サイトのシンボルマークがあった。

   当時、朝鮮半島に最も近く国境の島であり、防衛の最前線にあって、中央に対馬海栗島を配し、無線にレーダースゴープとレドームを表し、警戒監視任務の守りを固めている意気込みが伝わってくるシンボルマークである。

 

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《 昭和58年~60年ごろからわが家のタンスに保存していた 第19警戒群のシンボルマ-ク、今となっては貴重な幻のシンボルマークとなってしまったようだ。丁寧な刺繍で実によくできているシンボルマークである。》

 

❷ 現在(第19警戒隊)

 海栗島分屯基地

《 シンボルマークは西警団ホームぺ-ジ出典、昭和の時代と比較すると変わっていることが分かる。デザインは昭和の時代と異なったものとなっているようであるが、対馬海栗島を配しているところは同じで、白い花は、対馬市の木であるヒトツバタゴを表しているのであろうか対馬新聞ネットによると、「 昭和3年、鰐浦地区はヒトツバタゴ自生地として天然記念物に指定された。別名「ナンジャモンジャ」と呼ばれる国の天然記念物で、高さ15m、径70cmにも達する落葉高木で、上対馬町では5月初旬に3000本を越える自生木がいっせいに花を付ける。山を真っ白に染め上げる様は見事です」とある。シンボルマークに地域の特性を良く表しているようだ。》

  

3.昭和の第19警戒群(海栗島分とん基地)が所在した当時の海栗島   

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《 昭和58年~59ごろの観光パンフレットの一部である。海栗島(うにしま)は、対馬の一番北に位置する島である。対馬本島から海栗島に渡るには鰐浦漁港から北方約2km離れた小島へ向けて部隊契約の専用の伝馬船を利用することになる。全国の部隊でも珍しい離島の離島サイトであった。地名の由来は、良質なウニが採れることからと言われている。目の前に基地が見えるのに、海が荒れると連絡船を出せないこともあった。島そのものがレーダーサイトであった。基地周辺のウニなどの魚介類は保護されており、規律厳正で、隊員は基地を囲む海にはいることはなかったことが強烈に記憶に残っている。地図案内にも海栗島の下に「ヒトツバタゴ自生地」とある。》