昭和の航空自衛隊の思い 出(275) おらが部隊のシンボルマ-ク(7) 西警団第17警戒群(見島)

1. おらが部隊のシンボルマ-ク  

 航空自衛隊のみならず、自衛隊の部隊はシンボルマ-クを制定している。昭和58年8月~60年8月まで2年間西部航空警戒管制団司令部人事部長として勤務した当時の

部隊シンボルマ-クと現在公表されている部隊シンボルマ-クを比較してみたら全く同じか、かなり改されて出来上がっていることに気付く。部隊シンボルマ-クは部隊団結の象徴であり、ジャンバ-等の胸部に着けて着用していた。シンボルマ-クの制定に当たっては、部隊の任務、歴史があらわされており、デザイン採用時の発想・考えの基本を大切に受け継ぎ、部隊が伝統をいかに大切にしているかがよく分かる。

 どこの団司令部の玄関でも隷下部隊のシンボルマ-クが展示されているのを見かけたものだ。

 私の手元にも整理して見たら、タンスの引き出しに、当時の新品の西警団・シンボルマ-クの一部が袋につつんでは保管されていた。自衛隊部隊の部隊シンボルマ-クを収集しているマニアがいるくらいだからお宝の一つであろうか。

 

昭和時代の西部航空警戒管制団のレ-ダ-サイト

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2.西部航空警戒管制団の各部隊シンボルマ-クの昔と今

第17警戒群シンボルマ-ク

❶ 昭和の時代(第17警戒群・見島分とん基地 ) 

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《 昭和58年~60年当時の基地新聞「春日」の切り抜き 》 

 

❷ 現在(第17警戒隊)

 見島分屯基地

 

《 西警団ホームぺ-ジ出典 》

 

3.昭和の第17警戒群(見島分とん基地)が所在した当時の見島 

❶ 観光パンフレットによる見島の概要

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《 昭和58年4月第一番目に 離島サイトに幕僚訪問した時の見島の観光パンフレットの一部、アルバム帳に張り付けられていた。島に古くから伝わる鬼楊子(凧)が部隊シンボルマ-クにうまく取り入れられていたのに驚嘆と納得するものがあった。浜松の凧揚げと結びつき強い印象があったことを覚えている。 》

 

❷ 離島サイトの異動管理の問題 

 昭和58年3月着任して、幕僚訪問の第一番目に選んだ離島サイトが見島であった。離島サイトはいずれも勤務環境は同じであるが、地理的状況などにより勤務隊員に与える影響は微妙なものがあるように感じた。どの離島勤務者も厳しい勤務環境にありながら、住めば都のように慣れた顔をして、黙々と任務に励んいる姿を確認して、人事部長としての職責・使命を胸に刻んだことを鮮明に覚えている。

 警戒管制部隊における最大の課題は明確であった。離島勤務者に対して、将来の生活設計が描ける公平感・安定感のある異動管理をいかに進めるべきかであった。在任間、団司令を補佐してわが力の及ぶ限りこの問題に取り組んだ。数年後、空幕人事2班長として、航空自衛隊全般の准尉・空曹・空士の人事を担当することになった。

   58年5月直轄部隊長会議が行われ、第7警戒群は優秀部隊として団司令から表彰された。時の群司令は渡部成隆2佐でCS同期であった。

    また、見島の幕僚訪問において、現場の小隊・班まで視察した。少人数の部隊であるだけに上級空曹の存在と実力発揮の実態をしっかりと確認することができた。

 ここでは給養班の大先任である行方功一曹長が給養班全般を取り仕切っていた。その識見技量、指揮官の補佐ぶりに、かって空曹時代に目標とした福田正雄大先任を思い出し、このような人材こそ「部隊が求めている上級空曹だ」と航空自衛隊の精強性の一端がここにあることを再確認したことがあった。人事部長として最初の部隊訪問であっただけに強く印象に残った。

 その後の各部隊の幕僚訪問で、かって、3術校で雄たけび上げた「上司の期待する先任空曹5章」に掲げた上級空曹がここにもあすこにもと多数存在し、部隊の精強性の縁の下の力持ちとなっている様子を垣間見て感動した。

 

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 《 昭和58年5月 西警団直轄部隊長会議と部隊表彰の基地新聞「春日」の記事》