昭和の航空自衛隊の思い出(237) 第3術科学校教育担当第4科長の職務(2)

1.  抱負・目標に向けての継続努力  

     昭和56年8月17日付で 、第3術科学校勤務となり、第1教育部第4科長に指定され、人事総務教育、上級空曹要務及び教育技術を担当した。

 着任早々の私にとって、最大の厳しい試練は、待ったなしで、第4科を率いて、第3術科学校が11月10日~13日の4日間、術科教育本部長の教育訓練検閲を受閲することであった。 

 与えられた期間は短かったが、ひるむことなく、敢然として「ピンチはチャンス」「またとない好機」と捉え、前向きに受け止めた。自分の性格には、忙しくなったり、困難な問題に直面すると俄然燃えて挑戦意欲がどこからともなくなく湧き出るものがあった。今までの経験からしても修羅場に強い面を持っていたのかもしれなかった。

 こうしたことから厳しい状況下であったが、割合に冷静に心の余裕を持って対処した。目白押しの課程教育を整々と進めながら教案・教授の進め方等の改善を実施した。一方、検閲対処に全力を傾注し、受閲準備をする両面作戦を遂行した。

 両面作戦の遂行は、第4科長としての着任の抱負・目標を自動的に包括し、特別に強調することなく大部分を実行することになった。

    訓練検閲を乗り切るという大目標に向かって、第4科の総力を傾注して教官と学生が一体となった準備態勢は一歩一歩着実に確立されていった。

    この間、上司の第1教育部長野中壽1佐の元には報告を兼ねて頻繁に出入りし適宜指導をいただいた。その指揮統率は見事なものであった。

2.検閲対処で作り上げた体制の継続発展

 学校に対する訓練検閲の成績は良好で、「術科教育」では上級人事員課程が「優秀」と評価された。そのことは科の担当課程のすべてに通じるものであり、大きなインパクトを与え、力強い追い風となった。

 第4科長として着任時の抱負・目標は、訓練検閲という高いハードルを乗り越えることで目標に近づきつつあるように見えた。

   一息ついて、振り返ると、一気呵成に登った感があったので、もう一度足元を見つめてじっくりと時間をかけて順次見直しながら達成する必要があった。

 こうした考えの元に、一時的ではなく、将来にわたって充実発展する強固な基盤を作りたいと考えた。

3.  第4科における新しい取り組みへの挑戦

    訓練検閲を乗り切った第4科は、通常の体制に戻ったが、全体の士気も高まっていた。

 年明けて、昭和57年3月、人事異動により学校長及び第1教育部長にそれぞれ福岡靖也将補、濱島誠1佐が就任された。学校主脳部の交代により、第4科に新たなる転機が訪れた。学校運営全般にわたって充実向上に資する施策が明示され、新しい研究課題や事業の担当を付与されるようになったことである。

    こうした命題は積極的に引き受けることにした。それは第4科の保有する総合能力を発揮すれば十分に対応できるものであり、各教官の能力の伸長につながるものと判断した。さらには、着任時の抱負・目標の一つであった輝く優秀教官を一人でも多くの生み出すチャンスであると思ったからであった。

   術科教育本部の教育技術特定監察の受察のほか有事における短縮教育実施案の研究や学校幹部に対する文書教育講習、さては、女子隊員のマナ-講習、教育技術講習及び上級空曹特別講習の設定と教育実施などが付与され、科の総力を結集して積極的に対処した。これらの功績により昭和57年11月1日、第4科に対して福岡学校長から第4級賞状が授与された。

学校長  

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第1教育部長

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《 昭和57年4月、芦屋基地新聞の切り抜き記事から 》

 

教官室風景     

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 《 真夏の教官室は窓を開けて自然風を呼びこんだ。扇風機が気休め程度にあった。教室は隣にあり同じであった。》

 

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《 昭和57年11月1日、第4科に対して学校長から栄えある第4級賞状が授与された。》