昭和の航空自衛隊の思い出(235) 第3術科学校の概要

  昭和56年8月17日飛行教育集団司令部から第3術科学校へ転任した。配置は第1教育部第4科長(2佐職)であった。後継者の術科教育はいつの日かやってみたいと思っていた職務であり、大いなる夢を持って着任した。

1   主任務

 第3術科学校は、芦屋基地運営のための、全般業務を行うとともに、航空自衛隊における補給・調達・総務・人事・会計・厚生・給養・施設・車両操縦・車両整備の職域隊員に対し、その業務等に必要な知識及び技能を 習得させるための教育訓練を行っていた。

2   学校組織

  総務課教務課第1教育部第2教育部整備部・研究部・業務部及学生隊であった。

 昭和56年8月~58年3月における在任間の術科教育本部及び学校の主要幹部は、メモによると、術科教育本部長一宮眞之空将→志摩一郎空将、幹事郷田豊将補→濱田堯志将補、監理部長諏訪秀雄1佐→屋代松道1佐、人事部長木通博行1佐、教育部長本野順三1佐→堀江了1佐、監察官石井万晴1佐、医務官曽根徳郎1佐であった。

 第3術科学校は校長柳田義人将補→57/3福岡靖也将補、副校長桐山敏生1佐→山口博1佐 、総務課長柴田更六2佐、教務課長佐藤達雄2佐→末次信正1佐、第1教育部長野中壽1佐→57/3濱島誠1佐、第2教育部長山崎佐幸1佐→中山仁廣1佐、整備部長佐々野博章2佐→元重光基2佐、研究部長長谷川有利1佐、業務部長倉淵明1佐→川崎日出雄1佐であった。 

3   第1教育部

 第1教育部は、主として補給・調達・総務・人事・会計・厚生・給養職域の教育訓練を担当し、庶務科及び第1~第5科から成り立っていた。部長野中壽1佐→57/3濱島誠1佐のもとに、各科の科長は庶務科長船戸光行3佐→岡嶋明2佐、第1科長田村満彦2佐→安倍浩二2佐、第2科長島実3佐→式田2佐 、第3科長菊永邦郎2佐→加茂雄一2佐、第4科長濵田喜己2佐及び第5科長犬塚伸臣2佐であった。

  ちなみに、第1教育部は、主として施設・輸送・車両整備・消防等の教育訓練を担当していた。

4  第4科の担当教育と陣容

 教育内容は、総務・人事・要務・教育技術を担当した。科長としての在任は昭和56年8月~58年3月までの1年6か月であったが、思い切り仕事をすることができた。

 この間における陣容は、科長のもとに、野中宏之3佐、星子精健1尉、江口稔1尉、渋田保磨1尉、波多腰(永井)正2尉、中山博2尉、長岡勝義2尉、後藤悟准尉、山中親継曹長、松村軍城1曹、平野定男1曹、池田直1曹、秋山正道2曹、永岡純一郎2曹、北雅夫士長、小城左親事務官であった。

 いずれも優秀な教官であり、その後、それぞれが大成し、各部隊で実力を発揮し、なくてはならぬ存在となっていった。教官陣が職域後継者の育成に情熱を燃やし、結束して教育内容の充実、教育技術の向上に努め、航空自衛隊の総務人事職域隊員の育成、上級空曹教育の実施及び教官職に対しての教育技術の向上を図り任務遂行に寄与した。

 

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《 昭和56年8月着任時の筆者 》

 

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 《 第4科の陣容、前列左から、星子精健1尉、小城左親事務官、筆者、野中宏之3佐、江口稔1尉、後列左から池田直1曹、秋山正道2曹、山中親継曹長、後藤悟准尉、渋田保磨1尉、中山博2尉、平野定男1曹、北雅夫士長 》