昭和54年8月~56年8月まで2年間、飛行教育集団司令部に勤務し人事部人事第1班長を務めた。各級の司令部勤務も経験を積み、特に大きな問題もなく業務を遂行することができた。その基盤は人事部全体の融和団結・チームワ-クにあった。そのことは、どの司令部、部隊であっても同じことが言えた。
部における歓迎会・送別会・懇親会・忘年会や旅行はその最たるものであった。各級の司令部ではすべて部として計画実行した。
総隊司令部では、人事部の歓迎・送別会・懇親会は主として基地内の幹部公室で行った。都市部の特性から部員の居住場所が遠距離に散在していること、作戦司令部として即応態勢面などから歓迎会・送別会・懇親会・忘年会中心とし、旅行は計画しなかったように記憶している。
その点、飛行教育集団司令部は、浜松基地周辺に全員が居住し短時間で即応態勢がとれた。1泊旅行も行うことができた。
ここでも歓迎会・送別会・懇親会・忘年会や旅行にしても飲酒中心ではなく、川柳、余興など取り入れて楽しくかつ印象に残る内容にした。
司令部活動における業務は厳しいものがあったが、こうしたことがらを通じて公私にわたる絆は強かった。
人事第1班に関しては、当時のメモによると、幹部補任担当松原正一郎1尉→斎藤衛1尉・葛西哲2曹、曹士補任担当高田赳夫3佐→森省二1尉・三木雄二曹長・片岡廣己2曹・池田佳代子3曹→松田隆政2曹、服務担当高田赳夫3佐・馬場克彦准尉、記録日報・統計担当佐伯保廣士長→佐藤仁司士長・神藤(西田)峰子事務官→堤(青山)理恵事務官→米山佳江事務官→榊原(小沢)ますみ事務官→鈴木章子事務官 、庶務担当園中経生1曹→馬場克彦准尉及び矢野博司3尉であったように記憶している。
それそれが自分の人生を切り開き大成していった。自衛官人生の一端がここにあった。
1. 送別会・懇親会
《 堤理恵さんは結婚により退職した。てきばきとした抜群の人事業務処理は印象に残った。 》
《 幹部補任担当松原正一郎1尉及び記録担当佐伯保廣士長の転任 》
《 松原正一郎1尉の送別会、別れは尽きず 》
松原正一郎1尉と一緒に唄った。当時はカラオケもテ―プで曲を流し、マイクと歌詞集があるだけで、画像のない時代だった。》
《 全員で作った心のこもった川柳集を小澤人事部長から松原正一郎1尉へ贈った。誰もが認める人柄、日ごろの仕事ぶり、業績、特色など川柳調で作り上げた。》
《 松原正一郎1尉の送別会、自衛隊における異動・転勤は、任務遂行上等から行われる。一緒に仕事をした仲間との別れはつらいが自衛官等の宿命、回を重ねるごとに強くなっていく。送別の最後は舞台に上がって全員で別れと励ましの歌を唄った。》
2. 忘年会
《 忘年会ともなると舘山寺温泉等に1泊し、いろいろと企画し皆で楽しく過ごした。小澤人事部長の小唄の披露があった。小道具係がどこからか用意してくれた。》
《 演歌を唄う筆者 》
《 部員全員に関わる川柳を読み人知らずで秘密裏に作成し、高田3佐が披露した。補佐は池田3曹、筆者に対しての川柳は「恵比須顔仕事さずけて高笑い」とあった。われ苦笑の中全員拍手、こんな調子で爆笑・爆笑の連続で盛り上がった。》
《 平素の業務は多忙で厳しかったが、忘年会は笑顔と爆笑の連続であった。》
3. 親睦旅行
《 飛騨白川郷 》