昭和の航空自衛隊の思い出(229) 飛行教育集団司令部人事班長(3)

1.   隊員指導の中核となる者への期待

    昭和54年8月~56年8月まで2年間、飛行教育集団司令部に勤務し人事部人事第1班長を務めた。担当業務の一つに「服務に関すること」があった。

 部隊における隊員の服務指導の要は、服務指導係准尉にあった。そこで部隊において識見技能に優れ、年齢等人生経験が深く酸いいも甘いもかみ分けた服務指導係准尉を対象とした講習を3日間実施した。各部隊の担当准尉が集合し、現状及び将来の問題点、悩みなど意見交換・研究発表を行い指導の資としたものであった。何といっても担当者が顔を合わせて相互に語りあうことは有意義であった。

 第6航空団では初級幹部に対するの服務指導能力の向上策、内務班長の活用について実践してきたが、いつも頭の中にあったのは、私が2曹時代に内務班長を務め、理想の先任空曹像とした福田正雄先任空曹のような空曹空士の集団・階層を束ねる先任空曹の存在であった。

 先任空曹制度と所定の教育体系・内容の確立を求めて、次の第3術科学校における上級空曹に対する要務課程の教育で大いなる夢を託することにした。 

 

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 《 昭和55年6月10日~12日飛行教育集団服務指導係准尉講習、小澤重信人事部長・人事部各班長を囲んで各部隊の服務准尉 》

 

2.   同乗飛行による日帰り部隊訪問

 通常、部隊への出張は輸送機の定期便を利用していたが、司令官特命で人事関連で緊急に部隊訪問して直接調査・調整・確認をすべき事項が発生した時は、司令部パイロットの年次飛行も兼ねて一緒にT-33で同乗飛行することもあった。要撃管制幹部時代に低圧訓練を受講しており更新をしてきたので、いつでも同乗飛行できる体制にあった。

 午前9時ごろ出発し、要務を達して午後5時ごろまでに司令部に帰任し報告を終えることもあった。松島・防府と日帰り要務が果たせたのは航空自衛隊の特性というものであろうか。

 

3.指揮幕僚課程受検者に対する2次試験の指導

 かって昭和47年3月、浜松は教導高射隊に勤務した折、術科教育本部の実施した指揮幕僚課程2次試験受験者に対する集合教育に入れてもらい受験指導をいただいたことがあった。当時と部隊は異なったが、幸いこの時の恩返しをする機会がやってきた。

 この種の担当は人事部の訓練班であるが、CS卒業者ということで2次試験受験者に対する集合教育の計画・実施に積極的に関わり飛集団隷下の受験者が首尾よく合格するように手助けをした。このため最近の卒業者に指導官になってもらい、主要幹部には試験官になってもらった。

 その当時の受験者の一人で防大14期でパイロット 柴田雄二1尉は、見事に合格し課程卒業後は多くの主要な職務を経歴し浜松基地司令(将補)として着任された時は嬉しく思った。人の世の縁というもの、隊友会浜松支部長・OBの立場から陰ながら再び支えることができた。

    各部隊における勤務において人並み以上に傾注したことは、部内幹部候補生選抜試験及び3尉候補者選抜試験の受験を志す者に対してその志望をかなえるべく受験指導に助力したことであった。

 その根底にあったものは、自分が部内幹候やCSを志したときに受けた御恩を少しでもお返しできたらという思いであった。職務上というより「志ある者にはその目標を実現させてやりたい」という自分の心から湧き出た気持ちであった。

 そのような機会を与えられ支援できたたのも人事部門に配置されたこと、それができる「階級と職位」にあったことによるものだった。感謝の一語に尽きる。

 

4.  ソフトボール部長と若手部員との交流

    昭和54年8月、飛行教育集団司令部に着任するや前任の大先輩の三井良彦2佐の申し送りから基地ソフトボール部長 となり在勤の2年間ソフトボール部に関わった。

 当ソフトボール部すでに21年の輝かしい歴史と伝統を持っクラブであり、浜松市のソフトボール界では屈指のチ-ムとして有名であった。就任した年の夏は県大会に市の代表として出場したりした。名ばかりの部長であったが、出来る限り若い人たちと一緒に行動し、時には若手に囲まれていっぱいやり元気をもらった印象が強く残っている。

 

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浜松北基地ソフトボ-ル部について、監督成田光成君が基地機関紙に投稿した記事》

 

5.  上司たるものの部下への信頼と度量

 人事部長の小澤重信1佐は、陸自の部内幹候出身で指揮幕僚課程の卒業者であり、人事業務はベテラン中のベテランであった。私との関係では大方針を示すだけで、部下たる班長に存分に腕を振るう機会を与えていただいた。理想の指揮官道を地で行く方であった。足元にも及ばなかったが精進の目標とした。信頼されれば信頼された分一生懸命に働くのは階級・職位・年齢に関係ないものだ。

 人事部の懇親会、旅行は笑いがいっぱいある思いでの数々がいまだに瞼に焼き付いている。

 

6.   自衛官における階級と職務

 当時、飛行教育集団司令部における階級は2佐、歳は46歳となっていた。25歳で幹部自衛官に任命されたとき、部内から選抜される幹部候補生、俗にいう「部内幹候」出身であり、昇進とか出世とかは全く頭の中になかった。

 むしろ自分に与えられた職務をどれだけやり遂げられるか、自分の心に恥じない納得できる仕事がどれだけできるかに関心があった。いつの日か青年幹部時代から抱いた命題に取り組む機会を与えられたらとの思いが強かった。

 その点では、1回だけの受験資格で幸いにして指揮幕僚課程の選抜試験に合格し課程卒業後、各級の司令部の幕僚として配置され、与えられた職務を通じて多少なりとも命題に関わる事項に参画することができたことが一番嬉しかった。

 階級と職位は一体のものである。小なりといえども班長という職務について、日ごろ培ってきた策案を司令部活動を通じて実現できることに大きな喜びを感じたものであった。階級と職位が伴ってこそ、命題に取り組むことが出来たり、自分の能力を発揮することが出来るものだと痛感した。

 

7.   精密検査で検査入院

 自衛官人生にも思わぬ落とし穴があるものだ。人事第1班長在任中、定期の健康診断において、レントゲン写真で肺の一部に影があるというので浜松医療センタ-へ検査入院することになった。昭和30年入隊以来初めての入院であった。全く自覚症状はなかったが、10日以上の入院で精密検査の結果、過去に肺炎の痕跡があるとのことで特に問題なしと診断された。

 よく考えてみたら、心当たりは航空総隊司令部勤務において風邪で夜半ウンウンうなりながらも翌朝は健康を過信して勤務したことがあった。それなりに鍛えているから大丈夫だとの過信から来たものであった。このことは反省すべき出来事でその後、健康管理には意を用いるようになった。

 自衛官も生身の身体、自分の身体を過信をしたり無理をすれば必ずいつの日か反応があるものだ。指揮官は厳しい任務であればあるほど隊員の健康管理に細心の注意を払う必要があるが、基本は自己管理にあることを再認識して過ごすようになった。