昭和の航空自衛隊の思い出(226) 飛行教育集団司令部勤務を命ずる

1.   飛行教育集団司令部人事部人事第1班長へ

 昭和54年8月航空総隊司令部から飛行教育集団司令部勤務を命ぜられた。当司令部は浜松北基地に所在しており、住居は和地山官舎に入居、自家用車で通勤した。

 時に44歳・2佐であった。職務は人事部人事第1班長に指定された。人事部長小澤重信1佐の下に人事第1班(総括・自衛官人事担当)、人事第2班(事務官等人事担当・班長目黒松治事務官)、訓練班(班長摺澤清2佐)及び厚生班(班長柏木弘臣3佐)の4個班から成っていた。

   人事第1班は、班長の下に幹部補任担当松原正一郎1尉→斎藤衛1尉・葛西哲2曹、曹士補任担当高田赳夫3佐→森省二1尉・三木雄二曹長・片岡廣己2曹・池田佳代子3曹→松田隆政2曹、服務担当高田赳夫3佐・馬場克彦准尉、記録日報・統計担当佐伯保廣士長→佐藤仁司士長⊡神藤峰子事務官 →青山理恵事務官→米山佳江事務官→榊原ますみ事務官→鈴木章子事務官、  庶務担当園中経生1曹→馬場克彦准尉であった。そのほか矢野博司3尉が転進し救難パイロットとして大成した。

 在任間に高田赳夫3佐が55年8月6空団人事班長へ、後任に森省二1尉、55年3月松原正一郎1尉が千葉地連へ、後任に斎藤衛1尉が着任した。

 班員は優秀な人材が揃っており、その後、それぞれ栄進し人事担当として各部隊で活躍し人事部門航空自衛隊に貢献した。女性事務官は、自衛官と結婚し幸福な家庭築かれた。

   人事第2班は、班長・人事管理官 目黒松治事務官→小林一雄事務官、事務官等人事担当矢野五三夫事務官・石山事務官・田中書記、訓練班は班長摺澤清2佐、厚生班は班長柏木弘臣3佐・内山和夫事務官、渡辺清孝1曹であったと記憶している。

2.   班長・人事幕僚としての目標   

 主として戦闘航空団、作戦各級司令部の勤務であったが、今回飛行教育部隊の司令部勤務となった。飛行教育部門は初めてであったが、飛行教育全般についての識見技能を磨く機会を与えられた。

 人事班長としては、司令部活動において思い切り活動する場面を与えられた。その陰には、恵まれた環境にあったことである。

 それは、人事部長の小澤重信1佐が陸の部内幹候10期出身で、当時部内では数人しかいない指揮幕僚課程(第15期)の卒業者であったこと、人事幕僚の大先輩であることから適宜適切な指導と助言をいただくことができたことである。

    新しい目標は、飛行教育を含めた教育訓練についての識見を高めることであった。これらは隷下部隊の訓練検閲、監察団の一員として参加する機会を与えられた。これにより次の補職、術科学校の術科教育の担当者としての職務に活かすことに繋がった。

 

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 《 集団司厚生班長水野宏2佐定年退官の記念写真、前列は司令官川越重比古空将・幕僚長小野正明将補、各部長及び観察館等、後列が人事部員、水野さんは地域住民から請われて浜北市議会議員選挙に挑戦、見事上位当選を重ね、人格円満にして誠実な議員活動により市政に貢献、市議会議長を務めた。 》

 

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 《 昭和55年、飛騨の白川郷へ人事部の1泊親睦旅行 》