昭和の航空自衛隊の思い出(217) 航空総隊司令部における出会い

 「一期一会」というこしばがあるが、自衛官人生は、多くの人との出会いでもある。

自衛隊の組織集団は人と人との集合体である。特に上官・上司や同僚とのめぐり合い・出合いは、お互いを選ぶことはできないだけに不思議な縁ともいえる。それぞれの部署で終生忘れ得ぬ人間関係を築くことが出来たことは何物にも勝る幸せの一語に尽きる。

 

1.人事部長高浪淳1佐との出会い

    私が、昭和41年2月中部航空団司令部副官・2尉として、入間基地に勤務した折、しばらくしてから入間市の善蔵新田官舎に入居した。当時、副司令官舎として指定されていたが、副司令が自宅を持っておられたため副官在任間この官舎に入居することとなった。

 官舎地区には副司令官舎に電話が一本あるだけの時代で、留守番役兼電話取次役兼非常呼集伝達役を担うことになった。妻にとっては大変な時代であったが、下働きした分皆さんに可愛がっていただき良い経験となった。

 こうした関係から周りは、中空司令部の班長クラスの主要幕僚が入居していた。斜め横の一番近い官舎が人事の大先輩である中空司令部人事班長の高浪淳2佐宅であり、家族の皆さんに親切にしていただいたことから出会いが始まった。

 その後、高浪淳2佐は空幕人事課の幹部補任担当として活躍され、人事職域の経歴管理に深くかかわっておられた。再び総隊司令部で人事部長として親しくご指導をいただくこととなった。

 特に、人事部に関わる業務については、担当業務のほか特命事項の処理を命ぜられた。班長以上の主要幹部が並み居る司令官へのブリ―フィングなどは人事部の代表として常に檜舞台で活躍する場を与えられた。有事における特命研究ではチ-ム長として調査研究・策案のまとめ役を任された。

 常に、「自分には厳しく、他人には愛情をもって」接しておられ、人事幹部像の指標であり、人事のありように厳しく対処された。その後も家族ともども厚誼をいただいた。 

 

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《  高浪淳1佐、幹部候補学校生副校長等を歴任され将補で退官された。 》

 

2.人事部長山田稔1佐との出会い

 人事部長の交代に伴い、高浪淳1佐の後任として、ナイキ職域出身の山田稔1佐が着任された。大所高所から親しく指導をいただいた。ひょうひょうとした人柄の中にいつもニコニコしておられた。仕事には厳しく対処された。

 後年お会いした時、 昼間の休憩時間に数人でトランプブリッジを楽しんでいたが、「君の楽しそうな大きな笑い声がよく聞こえていたぞ」と よく言われた。当時、司令部勤務もすっかり慣れて仕事に脂がのっていた頃であった。厳しい業務であっただけに、メリハリをつけるため寸暇を利用して頭の切り替えを皆で行っていた。

 ご指導いただいたのは5か月の短い期間であったが、幕僚業務の進め方や指揮統率のあり方など学ぶところが多かった。その後、常に暖かく見守ってくださり、激励の便りをいただいた。

 

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《 山田稔1佐、その後、部隊指揮官を歴任され将補で退官された。 》

 

3.人事班長舟橋通郎2佐との出会い

  人事班長舟橋通郎2佐とは、昭和48年8月西部航空方面隊司令部に勤務した時、人事班長と准曹士人事担当との関係で一緒に仕事をした間柄であり、気心が通じ合っていた。再び航空総隊司令部人事班長のもとに総括・計画担当となった。班長に次ぐ次席幹部となり班長補佐が重要な役目となった。

 人事の大先輩であったが、こだわりのない人柄で何でも話し合えて、仕事をのびのびとしてやることができた。こうした面では、上司であった西空司人事班長の牛尼敬二2佐や6空団人事部長兵頭俊策2佐と同じように忌憚なく語りあえる関係となり、積極的に策案を提案する機会を与えてもらった。

 私が指揮幕僚課程を卒業したころは、人事分野では駆け出しであったが、階段を上るように現場と司令部の双方を交互に経験し、着実に人事幕僚としての識見・技能を磨くことができた。振り返ると、きわめて恵まれた環境にあったこと言えるであろう。

 

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《 橋通郎2佐、その後、部隊指揮官、総隊人事部長を歴任されて1佐で退官された。 》

 

4.訓練班次席の内野英昭1尉との出会い  

 自衛隊生活で何万人という大集団の組織の中で、めぐりあわせと言うか縁というものは不思議なものである。昭和33年ごろ浜松の整備学校で私が副内務班長・内務班長をした3曹・2曹の頃、一緒に内務班で苦楽をともにした当時士長の内野英昭君が1尉となって同じ人事部の訓練班の次席訓練幹部として着任してきた。 

  整備学校での出会い以来20年、彼とは交流が続き、いつも内務班長当時の「班長」と呼んでくれてその都度近況を知らせてくれた。整備学校から操縦学生に進んだが,中途で操縦免となり、私と同じような道を歩み部内出身幹部として教育訓練の分野で大成し、人事部で働くようになったのだ。

 人事部の親睦会等私が中心になって設営していたが、内野君が参入して部内の雰囲気がいっぺんに明るくなったものである。

 明朗闊達、陣頭指揮、熱血漢で行動力・実行力に優れ、信義に厚い彼はいつの時代も「幹部自衛官、指揮官はどうあるべきか」」「指揮統率はいかにあるべきか」と、折に触れて便りに認めて私に問いかけてきた。自ら率先垂範し、実践している様子が伺われ、求道の修練に励んでいた。幹部候補生学校区隊長、業務隊長等を歴任して2佐に栄進し目を見張るような活動をした。  

2014-11-17  昭和の航空自衛隊の思い出(53) 忘れ得ぬ故内野英昭君 参照 

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 《 昭和33年ごろ、右内野士長と筆者2曹 》

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 《 昭和54年ごろ、20年後総隊司令部人事部で左内野1尉と筆者3佐 》