「昭和の航空自衛隊の思い出」について
その時何を考え立ち向かったか
1. 人事担当者との交流の拡大
部内幹候出身として昭和36年2月、25歳のとき3尉となり、要撃管制幹部の道を歩んだ。航空警戒管制部隊の練成訓練に励み、第一線部隊で任務に就いた後、昭和43年8月、要撃管制から人事職域に転進するまでは、要撃管制職域仲間との付き合いが主であった。
中部航空警戒管制団の整備補給群及び基地業務群の本部人事班長等を歴任しているうちに、次第に人事幹部としての立ち位置を確立していった。人事幹部の経験を経て人事職域から指揮幕僚課程に挑戦し37歳・1尉で合格した。1年間の課程を卒業して、昭和48年7月西部航空方面隊司令部勤務を境に、専門の人事幕僚としての職務に専念していった。49年7月3佐となり39歳であった。
方面隊司令部の人事幕僚として、人事業務に関し多種多様な相互調整が増加するに伴い、急激に隷下及び関連部隊・機関等との人事担当者との交流が増えてきた。更にCS同期生とのつながりから他職域との交流と人脈が広がってきた。
昭和50年7月から52年8月までの小松基地勤務当時を振り返ると、大きな特色は何といっても、昭和48年7月指揮幕僚課程を卒業し、西部航空方面隊司令部に勤務して以降、急激に全国の人事幹部・幕僚との交流の範囲が広がったことである。
そのことは、反面、全国の航空部隊・機関等の人事担当者に名前を知られるようになり、その分、上下左右の人事関係者の多くを知ることとなった。次の勤務地となった作戦司令部の総本山である航空総隊司令部へ勤務するにあたり、仕事がしやすくなるなどにつながっていった。
2.団司令部人事幕僚としての活動
第6航空団に着任してからは、人事分野の諸先輩からはいろいろな面で声をかけていただくことが多くなった。人事の大先輩である上級司令部の中空人事部長の有安亮一1佐(陸士59期)、次いで髙橋文敏1佐(海兵75期)のほか、私がお仕えしたかっての上司や一緒に励んだ同僚から直接励ましと適時適切なアドバイスをもらうこともあった。こうした縁で長い間ご厚誼をいただくことになった。
当然に、職務に関しては、上級司令部の各人事幕僚とのやり取りが多くなり意思疎通も順調となった。相互の信頼が深まった分、人事業務を的確に進めることができた。
恒常業務は着実に進めながら、上司の人事部長、副司令、団司令の承認を受けて、着任にあたって温めてきた人事分野の各種の具体的な策案に取り組む機会を与えられた。人事幕僚としては、特に、服務等に関する事項について、全力投球で努力することができたので心は晴れやかであった。
《 昭和50年度中空人事班長講習 中空人事部長を囲んで記念撮影、7空団人事班長小西3佐、6空団人事班長濵田3佐、中空職員班長福地事務官、中空人事部長有安亮一1佐、中空人事班長有富2佐、1高群人事班長北村3佐、後列左から中空山本3佐、3空団人事班長深澤3佐、後列左から中警団安倍事務官、中警団服部2尉、4高群人事班長吉田1尉、中空宮村3佐、中空野中1尉、中空草野2尉、中空橋本事務官 》
《 昭和51年度中空人事班長講習 中空幕僚長及び人事部長を囲んで記念撮影、前列左から中警団人事班長木村2佐、中空人事部長髙橋文敏1佐、中空幕僚長小野正明将補、中空人事班長大谷2佐、1高群人事班長北村3佐、後列左から中空山本3佐、中空職員班長福地事務官、6空団人事班長濵田3佐、7空団人事班長小西3佐、3空団人事班長山口1尉、中空野中1尉、4高群人事班長吉田1尉、中空吉岡1尉、中施隊友竹准尉、中音隊藤井准尉、中空橋本事務官、中空宮村3佐、中空草野2尉、小野正明将補には総隊司令部勤務後、飛行教育集団司令部で幕僚長と人事班長・2佐という関係でお仕えし監察団・検閲団の一員として活躍の場を与えていただいた。 》
3.作戦に寄与する人事運用
初級幹部時代に運用特技である要撃管制を修練したことは自衛官人生で極めて有益であったように考える。若い時に現場の第一線部隊にあり、航空警戒監視、要撃管制に従事たことが、自衛隊勤務は常に有事に即応できるよう作戦運用を基本にして行動することを徹底して身につけたことであるように思う。
人事業務は単なる事務にあらず、部隊の運営、作戦運用の基盤をなすものだとの考えを徹底して堅持した。このゆるぎない信念のもとになったものは、青年幹部時代にレ-ダ-基地で24時間体制の厳しい交代制勤務で培ったものであった。
西部航空方面隊司令部勤務から各種の監察団、訓練検閲団の一員として、訓練・服務等を担当して参画するようになった。
小松基地・闘航空団にあって、団司令を補佐する専門幕僚として毎日の人事業務をどのように効果的に進めるべきかと日々反省と実行の繰り返しであり、あらゆる面で有意義であった。